翻訳のプロセスで当時の常識が反映されて、後に取り消された経緯

もとはドイツ語で「Zwang」と言った。日本語で「強迫症」だった。当時日本はドイツ医学に準じていた。
英国では「obsessional neurosis」、米国では「compulsion neurosis」と翻訳された。
可視的な行動と不可視的な思考という二項対立が生まれた。

この関係は、ドイツ語の「Hemmung」、日本語の「抑制」が、
psycho-motor retardationと翻訳されたのと類似している。

外部から観察可能な部分がcompulsion neurosisであり、motor retardationである。
obsessional neurosisとpsycho retardationは主観を聞き取るほかには知る方法がない。

しかも、意思発動→運動とする図式から言えば、
psychoが原因でmotorが結果、
obsessionalが原因でcompulsionが結果とみなすことが合理的と考えられた。
英米語への翻訳の時点で、この思想が明確になっていた。

ーーー

例えば、意思の発動が関係のない、バーキンソニスムのhypo-kinesiaやハンチントンのhyper-kinesiaは、外部から運動量の異常として観察されるが、その背後に意思の異常があるとは考えられていない。(これとは別に、最近ではパーキンソニスムにおける抑うつなども論じられているが、ここではとりあえず関係ない。)

精神科的な観察をするからには、運動の異常を論じるときに、その発動である意思の異常を考えることは当然だと思う。

しかし最近の考え方はそうではなく、psycho-motorやobsession-compulsionの間には因果関係はなく、両者ともに結果であり、並列されているのであるという。

ここで細かく言えば、

仮定1.「原因X」があって、「結果psycho-motor retardation」が発生し、同様に、「原因Y」があって、「obsession-compulsion」が発生している。
DSMでは、mototとcompulsionしか客観的に観察できないから、psychoとobsessionを捨てる形で、客観性を維持している。

仮定2.原因Xや原因Yがあるのならば、それらを麻酔するか、あるいは、そこからの神経回路を遮断するかで、治療ができるのではないか。そんなことはないので、原因Xや原因Yはpsycho-motorやobsession-compulsionと一体にの場所で発生していることではないか。

などとも推定される。

もっと細かく見れば、「一体」と見える構造の中で、さらに細かく分担があるのだろうけれども。

ーーー

全体として見て、脳を神経システムと見る限りは、細分化してゆけば、それぞれの機能を分担する構造があるはずであり、(つまり生理学と解剖学)、まだその細分化が学問として研究しきれていないということなのかもしれない。それが還元主義。

一方で、脳の仕組みとして、そのような単純な還元主義は成立していないのではないかとの考えが一方にはあり、これも非常に根強い。

ーーー

強迫性障害に焦点を当ててみれば、てんかん発作で見られるような、閉鎖的サーキットを作ってしまい、止められなくなっているのだろうとの推定は自然だし容易である。

最終出力が、またスタートになってしまっている場面は想像しやすい。

事務員が、完成した書類を意図とおりチェックして、完了する。その時、疑念がわく。本当にミスはないのだろうか。つまり、完了の瞬間が始まりの瞬間である。

無限のループを中止させるのは、納得したからではなく、単に疲れ切ったからである。あるいは、他にも忙しいからである。解決にはなっていない。しかし、他のことに取り紛れて忘れる。そのことも根本的ではないが、十分によい現実的な解決である。

治療者としても、できることは、根本的ではないが、十分に現実的な解決でよいのではないだろうか。

タイトルとURLをコピーしました