ACTでは、
何かの事情で重い荷物を背負った時にも、
自分の目指す価値があって、これにコミットするという態度で生きていれば、
何とか耐えられるのではないかとのことなのだが。
そうなのだろうか。
例えば、宗教者で、目標がはっきりしている人とか、献身できて、コミットできるでしょう。
本心では揺れもあるだろうけれど。
価値、コミット、そんなことを言っても、困るでしょう、普通は。
マザーテレサだって、迷っていたと日記に書いている。
例えば、高貴な家柄で、その家を守るのが価値で、それを実行しているのだから何の後悔もないとか、
そんなのもあり得ないですよね、最近は。それで疑問に思わないという方が、頭が悪そうだ。
例えば、医師の使命とか、職業的な形にしても、それは割合納得しやすいものだけれど、よく考えれば、
疑問がないわけでもないだろう。
私は誠実な人間になりたい、だから生きる方向ははっきりしていて、不安も迷いも少ないとか、
昔の忠君愛国少年でもあるまいし、まあ、今でも、教育勅語が好きだという人も家もあるらしいから、
そのような人たちは迷いも少ないのだろうけれども、大多数はそうではない。教育勅語が生きる価値だとか言い出すよりは健全だ。しかも、その価値を人に押し付けようとする人までいる、そうなると、自分の抱く価値というものではなくて、この世界を有利に生きるための道具になっているようだ。
他人には言わないでひそかに大切にするものでしょう、価値というものは。
他人に言うのは恥ずかしい、そういうものですよ。大切なものは。
本当に大切な、傷つきやすい、思い出は、人には言わないでしょう。
他人に大声で言えるというのは、世の中を生きる武器なんです。
でも、普通の人たちは、価値と言われても漠然としているし、迷いと不安ばかりです。
決まったらコミットできるかもしれないですね。それは。
でも、たいていの人は、そこまでの価値を見つけられないです。
それで普通ですよ。
そんな強い価値を今どき信じられるなんて、少し変わっているほうだと思う。
理性が残っていれば、「これが私の生きる価値」なんて決められない。
少なくとも、わたしはそちらに多く共感する。
価値を相対化できる方が進化した高級系だと思う。
価値と言っても、だいたいはキリスト教的価値とか、資本主義的価値とか、そんなものでしょう。
家柄とか学歴とか諸集団とか、それほどの強さはない場合が多いと思う。もちろん例外はあって、
症例として析出するのは例外の部分が多いと思うけれども。
そんな中で、ACTの人たちはどうやって価値にたどり着けるというのだろう。
武士道、藩のため、お国のため、天皇のため、家のため、会社のため、みんな昔のことだ。
むしろ、脱却できたことは進歩だと思う。
そういう意味で、ACTと言っている人たちは、キリスト教福音派とか、リバタリアンとか、アメリカ的な価値観状況を生きているような気がする。
少なくとも、私の身の回りでは、そんな人は少ない。
例えば、国連機関で平和活動に尽力しているとか、自身が考えても、他人が考えても、大事な仕事をしているというような、紙芝居の様な稀有な状況なら、話の辻褄は合うけれど。
メジャーリーグでMVPを取ってしまうような人は、また精神的にも違うのだろう。生きる価値は誠実さですと言っても、似合ってしまう。
