採録
まえがき
世界の政治情勢に宗教が深く関わっていることは、いまや周知の事実だろう。近年起きた紛争の当事者を考えてみても、米国の共和党を支えるキリスト教福音派、中東のイスラム教スンナ派とシーア派、イスラエル・パレスチナ問題、ロシアのウクライナ侵攻を支持するロシア正教会など、必ずといっていいほど宗教が影響を及ぼしている。
混迷する政治状況の背後に宗教の存在があると知ると、なぜそのようなものが現代まで残っているのか疑問に思わないだろうか。宗教は非合理なことを信じるものであり、対立のもととなるので、できるだけなくしていったほうが世の中は良くなるという意見さえ出てくるかもしれない。
実際に、進化生物学者リチャード・ドーキンスは、2001年のアルカイダによる米同時多発テロ事件と、当時のブッシュ大統領がそれに対する応戦として「十字軍」を唱えたことを受けて、『神は妄想である』を著して宗教否定論を展開した。彼によれば、宗教は古い時代の遺物であり、信じる理由がないだけではなく、その信者が複数のグループに分かれ、対立を起こすため有害なものである。したがって人類はもっと理性的になって、宗教から「卒業」しなくてはならないという。昨今の状況もこの当時と似てきており、ドーキンスのような意見を持つ人が現れても不思議ではないだろう。
現代の世の中において合理性や合理化がとても大事にされていることも、このような考えに拍車をかけるものだ。合理化とはなるべく無駄を省き、経済的な効率を高めることであり、たとえばレストランでタブレット注文や自動精算機が導入されると、人件費が節約できて価格も抑えられるなど、企業の合理化の努力には私たちも大いに恩恵を受けている。
合理化のためには、数量化も必要だ。施策に効果があるかを知るためには、何らかの数値で測れる指標を設けて、それが増えたか減ったかを見なくてはならない。学校の成績、商品やサービスの質、会社への愛着心(エンゲージメント)、自身のスキルや性格までもが、数量化されて評価される。
そうした評価の結果、数値が伸びることはぜひともやるべきだし、伸びないことはやっても無駄と判断される。このような見方が浸透した結果、「コスパ」や「タイパ」という言葉が日常的に用いられるようになった。
ところが、そのような合理性・コスパ重視の姿勢からはまったく理解できないことが世の中にはある。例として、建物を建設する際に行う地鎮祭は、土地の神様にお祈りをすることによって工事の安全を祈願しているが、そこで特定の儀式を行ったからといって、その後の工事のプロセスにどう影響するかは参加者にもわからないし、実際に効果があるというデータもない。それでも、地鎮祭なしでは不安になる建築関係者も多いと聞く。
「宗教」は、一見すると合理的に理解できない現象の最たるものである。神社やお寺に行ってみれば、そこを訪れる人々のほとんどが、科学的には存在を確かめられない神や仏を信じ、お辞儀をしたりおみくじを引いたりという不思議な行動をとっている。
合理化の見方からすると、こうした行動や考えは数値で測れる成果が得られないため、無駄で理解できないものに見える。その結果として、冒頭で述べたように宗教的なものは「問題である」「なくしたほうがいい」という反応になる。
とりわけ、容赦ないコストカットの渦中にあるのが葬式である。通夜と告別式をともなう一般葬が150万円ほどかかる一方で、通夜を省いた一日葬や、僧侶も呼ばない直葬にすれば費用が抑えられるため、そちらを選ぶ人が増えているし、その後の法要や墓参りについても負担が大きいとして、「墓じまい」も進んでいる。
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このような風潮はますます広まっているが、果たしてそのように単純に考えてよいのだろうか。神の信仰や礼拝、葬式といったことは無駄であり、それらにこだわっている人は愚かだと切り捨ててしまってよいのだろうか。あるいは、そこまで否定的に考えなくとも、宗教に関わる人を理解できない他者として遠ざけてよいだろうか。本書はこのような視点から出発し、人の認知や心理、進化に関する最新の研究(まとめて宗教認知科学と呼ぶ)を踏まえて、「なぜ信じるのか」「なぜそれをするのか」の説明を試みる。
たとえば、「人はなぜ神を信じるのか」という問いはどう考えられるだろうか。宗教認知科学では、まず出発点として、繰り返し現れる現象――この場合は神――に共通するのは何かと考える。キリスト教の神も日本の神道の神々も、「人間に似ているが、何らかの点で通常の人間とは異なる」「何か特別な力を持っている」という点は共通している。これは他の神にもいえることであり、ヒンドゥー教のガネーシャであれば、頭がゾウの姿になっている。ギリシア神話のゼウスであれば、雷を操ることができる。
ここでのポイントは、さまざまな文化の人々がある程度ばらばらに考えたにもかかわらず、特徴が似た神が信じられていることである。宗教認知科学では、この類似はたまたま起こったものではなく、「共通のものには共通の原因がある」と考える。そしてその理由は、心的傾向性、つまりヒトの考え方のくせを反映しているためだと推測する。
その傾向性のひとつが、「最小反直観的な要素は記憶に残りやすい」というものだ。詳しくは第1章で説明するが、簡単に述べると、神のような存在は共通して、物理的、生物学的、あるいは心理的な面で常識から外れる特徴を持っているということであり、その特徴のおかげで人々の記憶に残りやすいとされている。そのため、そうした特徴を持つ存在についての物語は広まりやすく、そこから宗教的信仰も生まれると考えられるのである。
この見方は「神」以外にも応用がきく。あなたの知っている怪談や怖い話に出てくる妖怪や怪異を思い浮かべてみてほしい。多くの点は他の生き物と同じだが、一部だけ通常の生き物とは異なる反直観的要素があるはずだ。たとえば幽霊は出たり消えたりする点で空間性に反しているし、都市伝説のターボババアであれば老婆なのに高速で走れるという物理的常識に反した存在だ。
このように、宗教認知科学が扱うことができるのは神や宗教に限らず、「合理的・経済的には説明がつかないが、なぜか信じていること・やっていること」一般だといえる。そうした物事は日常の中にも思った以上に存在している。2020年、新型コロナウイルス感染症の広まりによって緊急事態宣言が出されると、疫病を鎮めるとされる妖怪「アマビエ」が突然注目されて、絵を描いたり、グッズを作ったりする人が多数現れた。冷静に考えればアマビエの絵を描いたところで感染拡大が止まるとは思えないのに、なぜ人々はこれほどアマビエに頼ったのだろうか。
また別の例として、地域のお祭りに参加することには、労力がかかる割にあまり具体的なメリットがあるとは思えない。では、人は何のためにお祭りに参加するのだろうか。これらはまさに「合理的・経済的には説明がつかないこと」であり、こうした問いについても本書は答えを与えることができる。
その際のスタンスは、「神や幽霊は人間の心のはたらきが見せるもので、幻だ」という一部の宗教否定派のような姿勢ではない。むしろ、現代では非合理なものとして片づけられやすいそうした考えの背後に、それらが信じられる理由と、複雑な心のはたらきが関与しているのを示したいのである。
念のため付言すれば、本書は宗教が持ちうる危険性を軽んじるものでもない。各章でその負の側面にも言及するように、宗教の人々をまとめ上げる力が時には、社会にとって危険な結果をもたらすこともありうる。重要なのは、宗教がどのような仕組みで、そうした大きな力を生み出すのかを理解することなのだ。
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以下では、宗教認知科学の成果を踏まえつつ、宗教をそれぞれの側面から解きほぐしていく。第1章では基礎として、神や宗教を考える際に、最新の研究ではどのような見方をしているのかを解説する。第2章では、各種の認知メカニズムが、いかに人々に神をはじめとする超自然的行為者を信じやすくさせているのかを解き明かす。第3章と第4章では、神などの信念を支える要素として、神話や体験談といった物語と、儀礼や呪術などの活動をそれぞれ扱う。第5章では、それらが組み合わさって生まれる宗教の発展過程について見ていく。最後となる第6章は、これまでの内容を踏まえて、特に「推し活」について取り上げながら、現代日本に見られる宗教的なものの現状と今後について考察する。
本書によって、神と宗教に対する見方が変わるとともに、そうしたものを不断に生み出す「人間」なるものについての理解が深まれば幸いである。
