第十二章 新トマス主義の復興——近代への保守的応答(19世紀)
廃墟の中で何を再建するか
1815年、ナポレオン戦争が終わった。
ヨーロッパは廃墟の上に立っていた。物理的な廃墟だけではない。思想的・制度的な廃墟だ。
フランス革命は「理性の名の下に」国王を断頭台に送り、聖職者を処刑し、教会財産を没収し、キリスト教を廃止しようとした。ナポレオンは教皇をパリに連行し、事実上の人質にした。「神なき理性」が政治権力を握ったとき何が起きるか——革命とその後の恐怖政治は、ヨーロッパ人に深い傷を残した。
カトリック教会にとって19世紀は、廃墟の中から何を再建するかという問いの時代だった。
外側には攻撃者が立ち並んでいた。
自由主義(Liberalism)——個人の自由・政教分離・立憲政治を掲げ、教会の政治的権威を否定する。
社会主義・共産主義——1848年にマルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を発表した。「宗教は民衆のアヘンだ」——教会は搾取の道具として批判された。
科学主義(Scientism)——自然科学が真理の唯一の基準であり、宗教は時代遅れの迷信だ、という態度。1859年、ダーウィンが『種の起源』を発表した。進化論は「神による創造」という伝統的な教えと衝突するように見えた。
歴史批評(Historical Criticism)——聖書テキストを歴史的・文学的に分析する手法が確立し、「聖書は神の言葉であり歴史的に正確だ」という素朴な信仰が揺さぶられた。
これらの攻撃に、カトリック教会はどう応えるか。
その答えの一つが新トマス主義(Neo-Thomism)——トマス・アクィナスへの回帰という戦略だった。
教皇ピウス9世——「近代との全面対決」
新トマス主義を語る前に、その前提となる教皇ピウス9世(在位1846〜1878年)の時代を見ておく必要がある。
ピウス9世は歴史上最も長く在位した教皇で(32年間)、その治世は「近代との全面対決」の時代だった。
1864年、彼は**「誤謬表(Syllabus Errorum)」**を発布した。これは近代思想の「誤謬」を80項目にわたってリストアップした文書だ。
その最後の項目が最も有名だ。
「ローマ教皇は進歩・自由主義・近代文明と和解し、それらに適応できる、また適応すべきだ——という意見は誤りである。」
言い換えれば、「近代文明と和解すべきだ」という考え方自体が誤りだ、と宣言した。
これは現代の目には「時代錯誤の頑固さ」に見えるかもしれない。しかしピウス9世の立場には歴史的な論理がある。「神なき理性」が解き放たれたとき何が起きるかを、彼はフランス革命の記憶の中で知っていた。「近代と和解する」ことは、「キリストなき文明」を受け入れることだという恐れがあった。
1870年には第一バチカン公会議で、**「教皇無謬性(papal infallibility)」**が教義として定義された。教皇が信仰と道徳に関する問題について「座から(ex cathedra)」語るとき、その教えは誤りを犯さない——という教義だ。
これも「近代への防御」として理解できる。権威が疑問視される時代に、教会の権威を神学的に最強化する——という戦略だ。
しかし同時に、この「防御の強化」は教会の自己閉鎖のリスクも持っていた。
レオ13世の回勅——「トマスに戻れ」
ピウス9世の後を継いだ教皇レオ13世(在位1878〜1903年)は、より穏健で知的な路線をとった。
1879年、彼は回勅**『永遠の父(Aeterni Patris)』**を発布した。
その主張は明快だ。「キリスト教哲学の刷新のために、トマス・アクィナスの哲学と神学を学べ。」
なぜトマスか。
トマスは理性と信仰の調和を体系的に論じた。近代哲学が「理性か信仰か」という二者択一を迫るのに対して、トマスは「理性も信仰も、それぞれの領域で有効だ」という統合的視点を持っていた。
トマスは自然法(natural law)という概念を持っていた。人間理性は神が創造した自然の秩序を認識でき、そこから道徳的規範を導き出せる——これは「聖書なしに道徳を語れない」という宗教的閉鎖性を避けながら、世俗的な社会・政治・法律の議論に参加できる道を開く。
トマスはアリストテレスを「統合」した実績がある。つまり当時の「危険な外来哲学」をキリスト教神学に統合した。近代哲学という「新しい危険な外来思想」にも、同じ統合の方法が使えるはずだ——という期待があった。
レオ13世の回勅は、カトリック大学・神学校でのトマス主義の復権を制度的に推進した。ローマに**アンジェリクム(教皇庁立トマス・アクィナス大学)**が設立され、ルーヴァン(ベルギー)の大学がトマス主義研究の国際的中心になった。
しかし「どのトマス主義」か——内部の多様性
「トマスに戻れ」という号令は出た。しかし問いが生じた。
「トマスをどう読むか。」
13世紀のトマスをそのまま「復元」することは不可能だ。彼はカントを知らない。ダーウィンを知らない。マルクスを知らない。近代科学の方法論を知らない。
「新トマス主義」内部には、実は大きな多様性があった。
厳格なトマス主義——トマスのテキストを最も忠実に解釈し、近代哲学との対話を最小限にする。トマスの形而上学を「近代以前の真の哲学」として守る。
超越論的トマス主義——カントの認識論の問いをトマス主義の枠組みで応答しようとする。最も影響力ある潮流で、ベルギーのジョゼフ・マレシャル(1878〜1944年)が代表だ。彼の影響は後のカール・ラーナーへと直接つながる。
歴史的トマス主義——トマスをその歴史的文脈で精密に研究し、後世の「トマス主義的変形」から本来のトマスを取り戻そうとする。エティエンヌ・ジルソン(1884〜1978年)とジャック・マリタン(1882〜1973年)が代表だ。
マレシャルの「超越論的転回」——カントをトマスで越える
ジョゼフ・マレシャルの試みは神学史的に特に重要なので、もう少し詳しく見てみよう。
カントの問いはこうだった。「人間の認識はどこまで届くか。神のような経験を超えた存在は、認識できないのではないか。」
マレシャルはカントの問いを真剣に受け止めた上で、こう問い返した。「人間の知性が『問い続ける』という事実そのものが、何を示しているか。」
人間の知性は決して満足しない。どんな有限の対象を認識しても、「さらにその先は」と問い続ける。なぜか。
マレシャルの答えはこうだ。「知性が動いている方向に、無限の存在(神)がある。」
コンパスの針が常に北を指すことは、北の方向に何かがあることを示す。人間の知性が常に「より大きな存在・より完全な真理」へと向かい続けることは、その方向に無限の存在があることを示す——これがマレシャルの「動的な存在論的証明」だ。
これはカントの批判を「正面から引き受けながら、その内側から超える」試みだ。「神は証明できない」というカントへの反論を、カントの哲学の枠組みの内側から行っている。
この方法——近代哲学の問いを内側から突き破る——は、20世紀のカール・ラーナーが継承・発展させることになる(第十三章)。
ジルソンとマリタン——「キリスト教哲学」は可能か
エティエンヌ・ジルソンはフランスの哲学者・中世哲学史家だ。彼の生涯の仕事は「中世哲学の歴史的再発見」だった。
ジルソンが強調したのは、「存在(esse)」というトマスの根本概念の独自性だ。
トマスにとって、神は「存在するもの」ではなく**「存在そのもの(ipsum esse subsistens)」**だ。神は「ある存在者」ではなく、「存在することそのもの」だ——これはアリストテレスにもプラトンにもない、ユダヤ・キリスト教的啓示から来た発見だ。
ジルソンはここに「キリスト教哲学」の可能性を見た。哲学は信仰から独立した純粋理性の営みだ、というカント以来の前提に対して、**「啓示がなければ到達できなかった哲学的洞察がある」**と主張した。「存在そのものとしての神」という概念は、哲学的に探求できるが、その探求への出発点は啓示から来た——という逆説的な主張だ。
ジャック・マリタンはジルソンの友人で、思想的に近いがより実践的・社会的な方向に関心を持っていた。彼の**「積分的ヒューマニズム(Humanisme intégral)」**は、キリスト教的な人間理解に基づく社会・政治思想を展開した。
人間を「理性的動物」として尊重しながら、その尊厳の根拠を神による創造と召命に置く——これは単なる「宗教的ヒューマニズム」ではなく、近代の世俗的ヒューマニズムと真剣に対話しながら、その限界を超えようとする試みだ。
マリタンの社会思想は、第二次大戦後の**世界人権宣言(1948年)**の起草にも影響を与えたと言われる。「普遍的人権」という概念を、キリスト教的自然法の伝統が支えることができる——という主張は、今日の人権論議でも重要な問いを提起している。
レオ13世のもう一つの遺産——社会教説の誕生
レオ13世の貢献は新トマス主義だけではなかった。1891年、彼は別の重要な回勅**『レールム・ノヴァルム(Rerum Novarum:新しき事態)』**を発布した。
これは**カトリック社会教説(Catholic Social Teaching)**の出発点となった文書だ。
背景は産業革命後の社会問題だ。工場労働者の劣悪な労働条件、子供の労働、極端な貧富の格差、労働組合の弾圧——これらは19世紀の現実だった。
レオ13世は二つの方向を同時に批判した。
資本主義への批判——労働者を機械の部品として扱い、人間の尊厳を無視する無制限の資本主義は、自然法に反する。
社会主義への批判——私有財産の廃止は人間の本性と自然法に反する。階級闘争による社会変革は暴力と混乱を生む。
代わりに提案したのは、**「補完性原理(subsidiarity)」と「連帯(solidarity)」**に基づく社会秩序だ。
補完性原理とは、「できることは小さな単位で行え」という原則だ。家族でできることは家族で、地域でできることは地域で、国家に頼るのは最後の手段——個人・家族・地域共同体の自律性を尊重する。
連帯とは、「私たちは互いに責任を持つ」という認識だ。労働者の権利・公正な賃金・共同の善——これらは個人の慈善ではなく、正義の問題だ。
これは神学的に重要だ。トマスの自然法思想が、具体的な社会・経済問題への応答として展開されたのだ。「信仰は内面の問題」という近代的分離に抗して、「信仰は社会構造の問題にも関わる」という主張が体系化された。
近代主義危機——内側からの挑戦
19世紀末から20世紀初頭、新トマス主義的な防衛線を内側から突き崩そうとする動きが、カトリック教会内部から生まれた。
**「近代主義(Modernism)」**と呼ばれた動きだ。
フランスの神父アルフレッド・ロワジー(1857〜1940年)は、聖書批評の方法をカトリック神学に適用しようとした。「イエスは神の国を宣べ伝えたが、来たのは教会だった」という彼の言葉は有名だ——歴史的イエスと信仰のキリストの間の距離を直視することへの誠実な試みだったが、教義の基盤を揺るがすものとして受け取られた。
イギリスのイエズス会士ジョージ・ティレル(1861〜1909年)は、教義の「生きた発展」を認め、固定した形而上学的定式への拘束に疑問を呈した。
教皇ピウス10世は1907年、回勅**『パスケンディ(Pascendi)』**でこの「近代主義」を「すべての異端の総合」として断罪した。ロワジーもティレルも破門された。
さらに「反近代主義の誓い」が全聖職者に課せられた——これは1967年まで続いた。
この「近代主義危機」は、カトリック神学に深い傷を残した。
**「正直に問うことが危険だ」**という空気が広まった。聖書批評・歴史研究・哲学との対話——これらを真剣に行うことが、疑惑の目で見られるようになった。
しかしこの抑圧は、問いを消すことはできなかった。水面下で蓄積した問いは、半世紀後に第二バチカン公会議という形で噴出することになる。
新トマス主義の功績と限界
この章の末尾に、新トマス主義の功績と限界を正直に整理しておこう。
功績:
第一に、知的真剣さの回復。感情的な防衛反応ではなく、哲学的・神学的な精密さで近代の問いに応答しようとした姿勢は、神学の知的尊厳を守った。
第二に、自然法思想の社会的展開。レオ13世の社会教説に見られるように、トマスの自然法思想を近代の社会問題に適用したことで、カトリック思想は「政治・経済・人権」という現代的テーマへの独自の視点を発展させた。
第三に、哲学的対話の基盤の形成。マレシャル・ジルソン・マリタンの仕事は、後の第二バチカン公会議の神学的準備として機能した。カール・ラーナーはマレシャルなしには生まれなかった。
限界:
第一に、硬直化のリスク。「トマスに戻れ」という号令は、しばしば「トマスの答えをそのまま繰り返せ」という形に硬直化した。問いへの応答が、答えの反復になってしまう危険だ。
第二に、歴史性への鈍感さ。近代の最も重要な問いの一つは「歴史性」だ——真理は時代・文化・歴史の文脈に埋め込まれている。新トマス主義は形而上学的・永遠的な真理の体系を構築しようとしたが、歴史の中で変化する理解というテーマへの感受性が弱かった。
第三に、「近代主義弾圧」による萎縮。1907年の断罪後、カトリック神学者たちの知的冒険心が抑圧された。真剣な問いが「異端的」と見なされるリスクの中では、神学は守りに入らざるを得ない。
19世紀という時代の意味
19世紀のカトリック神学は、嵐の中の船だった。
外からは自由主義・社会主義・科学主義・歴史批評という波が押し寄せた。内からは近代主義という問いが湧き上がった。教皇権の強化と「近代との対決」という路線は、一時的な防御として機能したが、長期的には教会の知的活力を制約するリスクを持っていた。
しかし同時に、この時代のカトリック思想家たちの真剣な格闘——マレシャルの超越論的転回、ジルソンの歴史的再発見、マリタンの社会思想、レオ13世の社会教説——は、20世紀に花開く準備だった。
嵐の中の船は揺れる。しかしその揺れの中で、船員たちはより深く海を知る。
20世紀に入ると、この蓄積が一気に開花する時代が来る。ヨハネ23世が「窓を開けよ」と言い、第二バチカン公会議が始まる——それが次章の舞台だ。
次章では、20世紀カトリック神学の大転換を見ていく。カール・ラーナー・イヴ・コンガール・ハンス・ウルス・フォン・バルタザールという巨人たちが準備し、第二バチカン公会議が結実させた「アジョルナメント(現代化)」の神学的意味を、具体的かつ深く辿る。
