第2章:正義をめぐる対立――ロールズとノージックの思想
自由主義がその歴史の中で直面してきた最大の難問は、「自由」と「平等」をいかにして両立させるかという問いです。一般的に、自由と平等はトレードオフの関係にあると考えられています。自由を重視しすぎれば、個人の能力や偶然の運によって格差が広がり、不平等が生じます。逆に、結果の平等を無理に追求すれば、個人の自由な活動や私有財産権を厳しく制限せざるを得なくなります。 この「リベラリズムの正義」をめぐる議論は、1970年代にアメリカで起きた二人の思想家による歴史的な対立によって、新たな次元へと引き上げられました。それが、ジョン・ロールズとロバート・ノージックの論争です。
ロールズの「公正としての正義」:福祉国家の正当化
19世紀後半から20世紀前半にかけて、知的世界では「何が正しいか」という価値判断に客観的な基準はないとする「価値相対主義」が主流でした。しかし、1971年にジョン・ロールズが著した『正義論』は、正義について客観的な解答を提示し、政治哲学という分野を劇的に再生させたと評価されています。 ロールズがまず批判の標的にしたのは、当時支配的だった「功利主義」でした。功利主義は「最大多数の最大幸福」を掲げますが、これは社会全体の利益(善の総量)を増やすためなら、特定の個人の権利や自由を犠牲にすることを許容してしまいます。 これに対しロールズは、社会のルールを決める際の思考実験として「原初状態」という概念を提唱しました。これは、人々が「無知のヴェール」に覆われ、自分の社会的地位、才能、価値観、世代などを一切知らない状態を指します。もし自分が社会の最も底辺に生まれる可能性を考慮するなら、合理的な人々は、自分がどのような立場になっても耐えられるような、最も公平なルールを選ぶはずだ、とロールズは考えました。 この手続きを通じて導き出されるのが、次の「正義の二原理」です。
- 第一原理(平等な基本的自由の原理): 各人は、他人の同様な自由と両立する限り、広範な基本的自由(信教、言論、身体の自由など)に対する平等な権利を持つ。
- 第二原理: 社会的・経済的な不平等は、「最も不遇な人々の便益を最大化する(格差原理)」こと、および「公正な機会の均等」が保障されている場合にのみ許容される。
特筆すべきは「格差原理」です。これは、生まれつきの才能や家柄といった「自然の宝くじ」の結果を社会の共同資産と見なし、格差があることで最も貧しい人の状況が改善される場合に限って、その格差を正当化するという画期的な考え方でした。これにより、所得の再分配を行う「福祉国家」の道徳的正当性が理論的に裏付けられたのです。
ノージックの「最小国家論」:自由至上主義の挑戦
ロールズの理論に対し、正反対の立場から強烈な反論を突きつけたのが、ロバート・ノージックでした。1974年の著書『アナーキー・国家・ユートピア』において、彼は「自由至上主義(リバタリアニズム)」の立場から、個人の権利の絶対性を主張しました。 ノージックの思想の根幹は「自己所有権」です。人間は自分自身の身体、労働、そしてその労働の結果として正当に得た財産の絶対的な所有者であり、何人もその同意なしに他人や国家の目的のために利用してはならない、という考え方です。 ここから導き出されるのが、国家の機能を最小限に絞り込む「最小国家」の構想です。国家が担うべきは、暴力や盗み、詐欺からの保護、および契約の執行という治安維持機能に限定されるべきであり、それ以上の介入、例えば富の再分配を目的とした課税は「強制労働」にも等しい不正義である、とノージックは論じました。 彼はロールズの「格差原理」を、現在の配分結果だけを見る「結果状態原理」であるとして批判しました。ノージックによれば、正義とは結果ではなく、財産が獲得・移転された「歴史的プロセス」に宿るものです(権原理論)。たとえ大きな貧富の差が生じても、それが正当な交換や贈与の結果であれば、国家が介入して修正する権利はないというのです。
自由主義が抱える矛盾と問題点
ロールズとノージックの対立は、自由主義の内部に潜む深刻な矛盾を浮き彫りにしています。
第一に、「所有権」と「生存権」の衝突です。ロールズのように「平等な機会」を確保しようとすれば、他者が正当に築いた財産への介入が不可避となります。一方でノージックのように所有権を絶対視すれば、生まれつきの不運や病気で困窮する人々を「私的な慈善」に委ねることになり、結果として彼らの「実質的な自由」が奪われることになります。 第二に、国家の中立性の限界です。リベラルな国家は、国民の「善き生き方」に介入しない「価値の中立性」を理想とします。しかし、ロールズの「格差原理」は、富の再分配という特定の「正義」を実現するために、強力な行政権力を必要とします。これは「小さな政府」というリベラリズムの当初の理想と矛盾し、国家が国民の生活を管理する「羊飼い」のような存在へと肥大化する危険性を孕んでいます。 第三に、歴史原理と現実の不正です。ノージックの権原理論は一見筋が通っていますが、現実の歴史を振り返れば、土地や資源の多くは過去の戦争や略奪(不正)を通じて獲得されてきました。過去の不正をどこまで遡って修正すべきかという問いに対し、ノージックの理論は明確な処方箋を持っておらず、結果として現状の不当な格差を固定化する道具になりかねません。
最後に、両者に共通する根本的な問題点として、人間を社会的な文脈から切り離された単なる「意志の主体」として捉える「アトム化された個人観」が挙げられます。どちらの理論も、個人が他者との絆や伝統の中で自らのアイデンティティを形成しているという視点が希薄です。 自由か、平等か。この二者択一を超えた「人間の真の姿」を問う議論は、次章で扱うコミュニタリアニズム(共同体主義)へと引き継がれることになります。
