第1章 新自由主義日本という「症例」

第1章 新自由主義日本という「症例」

――資本の論理と生活世界の疲弊


 医師は患者を診るとき、まず「症例」として整理する。

 症例とは、個々の症状をばらばらに列挙することではない。発熱・咳・倦怠感という三つの症状が、実は一つの感染症から派生しているように、表面に現れた複数の現象を、その背後にある一つの病態として統合的に捉えることだ。医師の仕事の本質は、この統合にある。個別の症状に惑わされず、「これはどういう病態か」と問う力が、診断の核心をなす。

 私はここで、現代日本社会を一つの「症例」として提示したい。

 少子化、インフレ、円安、医療費抑制、軍事費拡大、非正規雇用の増加、格差の拡大、地方の空洞化――これらを「別々の社会問題」として並べることはできる。しかし医師の目で見ると、これらは互いに無関係な事象の羅列ではなく、一つの深層的な病態の、それぞれ異なる症状として読める。

 その病態の名を、本章では「新自由主義の成熟」と呼ぶことにする。


新自由主義とは何か――「市場に任せれば、うまくいく」という思想

 新自由主義という言葉は、しばしば「悪者」として語られる。しかしそれを批判的に検討するためには、まずその中身を正確に理解する必要がある。

 新自由主義(ネオリベラリズム)とは、簡単に言えば「国家の役割を最小化し、市場の力に社会の調整を委ねる」という考え方だ。一九七〇年代から八〇年代にかけて、英国のサッチャー首相、米国のレーガン大統領によって本格的に政策として実装され、その後、世界中に広がった。日本では一九九〇年代後半から、小泉政権(二〇〇一〜〇六年)の時代に「構造改革」という名のもとで大規模に推進された。

 その核心にある論理はこうだ。「競争こそが効率を生む。非効率な部門は淘汰されるべきだ。社会保障は働く意欲を損なう。個人は自分の人生に自分で責任を持つべきだ」。この論理は、一見すると合理的に聞こえる。企業が競争すれば技術が進歩し、製品は安くなり、社会全体が豊かになる――そういう話だ。

 実際、ある局面ではそうだった。高度成長期から続いた日本的経営の硬直性、護送船団方式と呼ばれた規制による非効率は、たしかに改革を必要としていた。新自由主義的な改革が、一部の産業では活力をもたらしたことも事実だ。

 しかし問題は、この論理が「市場になじまないもの」を扱う際に生じる。


市場になじまないものたち

 人間の生活には、市場の論理に乗りにくいものが無数にある。

 たとえば子育てだ。子どもを産み育てることは、経済的に言えば「コストに見合わない行為」である。特に高度に市場化された社会では、子育てにかかる時間・費用・機会損失は膨大で、見返りは長期間にわたって不確実だ。市場の論理で動く個人が合理的な判断をするなら、子どもを持たないことが「正しい選択」になる。少子化は、新自由主義的な社会において、個人が合理的に行動した結果として起きている現象の一つだ。政府が「子どもを産んでほしい」と訴えながら、子育てを市場に任せようとする矛盾が、少子化対策をことごとく実効性のないものにしている。

 医療もそうだ。病気になることは、誰もコントロールできない。医療は「必要になったときに必要なだけ受けられる」ことが本質的な価値だが、市場の論理はそれを「支払い能力のある人が受けられるサービス」に変えていく。医療費抑制のために診療報酬が切り詰められると、医師・看護師は疲弊し、病院は経営難に陥り、地方から医療が消えていく。しかし市場の論理から見れば「採算が取れない病院が潰れるのは自然なことだ」ということになる。

 福祉も、老いることも、精神的な病も、みな同様だ。これらは「効率」や「利益」という尺度では測れない人間の本質的な脆弱性に関わる領域だ。それらを市場に任せることで、社会の網の目から零れ落ちる人々が増えていく。


「自己責任」という言葉の暴力

 新自由主義が社会に浸透するとき、それは経済政策としてだけでなく、一つの「道徳」として人々の内面に根を張る。

 その道徳の中心にあるのが「自己責任」という概念だ。

 仕事を失ったのは、努力が足りなかったからだ。貧しいのは、スキルを磨かなかったからだ。病んだのは、自分の管理が甘かったからだ。この論理は、社会的な失敗の原因をすべて個人に帰する。構造の問題を、性格の問題にすり替える。

 これは非常に巧みな論理的転倒である。なぜなら、この論理が浸透すると、困難に直面した人々は怒りを外に向けるのではなく、自分を責めることになるからだ。「社会がおかしい」ではなく「自分が弱い」と。抗議の声が上がらず、政治が変わらず、現状が維持される。現状を維持したい側にとって、これほど都合のよいイデオロギーはない。

 精神科の診察室では、この「自己責任の内面化」が病理として現れる。うつ病の患者の多くが、深刻な自己批判を持つ。「私が弱いから」「私が頑張れないから」「私さえしっかりしていれば」。その言葉の裏に、どれほどの構造的な過重負担が隠れているかを、臨床家は日々目の当たりにする。


日本型新自由主義の特殊性

 日本の新自由主義には、他国と異なる特殊性がある。

 欧米では、新自由主義的な改革に対して、労働組合・社会運動・左派政党が一定の抵抗を示した。改革の速度が落ちたり、セーフティネットが部分的に守られたりすることがあった。しかし日本では、そのような対抗力が著しく弱い。労働組合の組織率は低下し続け、野党は分裂と迷走を繰り返し、社会運動は一部の世代と地域に限定されている。

 さらに、日本には「空気を読む」という強力な文化的規範がある。異議申し立ては「和を乱すこと」として社会的なコストを伴う。これが、改革への抵抗を個人レベルで困難にする。怒りを持つことは許されるが、それを言葉にして外に向けることは、非常に高いハードルを越えなければならない。

 その結果、日本の新自由主義的改革は、抵抗なく、静かに、しかし着実に社会の構造を変えてきた。セーフティネットは縮小し、格差は拡大し、生活の不安定さは増したが、それに対応した政治的反応は極めて鈍かった。


症例の全体像へ

 冒頭に戻ろう。医師は症状の羅列に惑わされず、病態を見る。

 少子化は、市場化された社会で個人が合理的に判断した結果だ。インフレと円安は、財政拡張と金融政策の矛盾が臨界に近づいているサインだ。医療費抑制は、福祉国家の解体が医療という最後の砦に達しつつあることを示す。軍事費拡大は、経済的な衰退を安全保障の強化によって補償しようとする、国家の防衛反応だ。

 これらは別々の問題ではない。一つの病態の、複数の症状だ。

 そしてその病態の中で、人々は生きている。生き、疲れ、傷つき、時に心を病む。その心の病を引き受けるのが精神科医であり、臨床家たちだ。だとすれば、臨床の場で何が起きているかを理解するためには、その背景にある社会の構造を、正確に、そして冷静に見ておく必要がある。

 それが本章の意図であり、本書全体の出発点である。

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