第4章 超自我化する国家
――フロイト的視点から見た統治と自己責任論
ある患者のことを思い出す。
四十代の女性で、長年にわたって職場でのハラスメントに耐えてきた人だった。上司から繰り返し「お前は使えない」「なぜそんなこともできないのか」と言われ続け、やがてうつ病を発症して受診した。
診察で印象的だったのは、彼女が上司への怒りをほとんど語らなかったことだ。代わりに語られたのは、自分への批判だった。「私がもっとできれば良かった」「私の能力が足りなかった」「迷惑をかけてしまった」。外から加えられた暴力が、いつの間にか内側からの声に変わっていた。上司の言葉が、彼女自身の声になっていたのだ。
これがフロイトの言う「超自我」の形成だ。
しかし私がここで考えたいのは、個人の心理の話だけではない。同じことが、社会全体のレベルで起きているとしたらどうか、という問いだ。
国家が「超自我」になるとき
フロイトは超自我を、主に親子関係の中で形成されるものとして考えた。しかしその後の精神分析の発展の中で、超自我の源泉はより広く捉えられるようになった。親だけでなく、教師、宗教、文化的規範、そして国家もまた、超自我の素材を提供しうる。
国家が超自我として機能するとはどういうことか。
通常、権力は外から行使される。法律、警察、罰則――これらは外部の強制力だ。しかし最も効果的な権力は、強制を必要としない。人々が自発的に規範に従い、逸脱を自ら抑制するとき、権力はその最も効率的な形態に達する。外の檻ではなく、内の声として機能するとき、権力はほとんど完全になる。
哲学者のミシェル・フーコーは、近代の権力がまさにこのように機能すると論じた。「規律権力」と彼が呼んだものは、身体を外から縛るのではなく、個人が自らを監視し、規律するように仕向ける。学校・病院・軍隊・監獄といった制度が、この自己監視の主体を作り上げる装置として機能するという議論だ。
フロイトの超自我論とフーコーの規律権力論は、出発点は異なるが、同じ現象の異なる切り口だと私は思う。外の命令が内の声になる。強制が自発性に化ける。罰が自責感に変わる。この転換こそが、現代的な権力の本質だ。
「自己責任」という超自我的命令
現代日本の超自我的規範の中心にあるのが、「自己責任」という概念だ。
自己責任論の論理はシンプルだ。「自分の人生は自分で選択したのだから、その結果も自分で引き受けるべきだ」。これは一定の真実を含んでいる。人は選択の主体であり、選択には結果が伴う。その意味での責任は、誰にでもある。
しかし現代日本で流通している「自己責任」論は、この穏当な命題を大きく逸脱している。非正規雇用になったのは本人の能力不足だ。貧困に陥ったのは努力しなかったからだ。病気になったのは生活管理が悪かったからだ。就職氷河期に就職できなかったのは自分の問題だ。――これらの言説は、構造的な問題を個人の問題に転嫁する。選択の自由がない状況での「選択の失敗」を、本人の責任として処理する。
なぜこれが「超自我化」するのか。それは、この論理が外から言われるだけでなく、当事者自身の内部に根を張るからだ。就職できなかった若者が「自分の努力が足りなかった」と思う。生活保護を受けた人が「恥ずかしい」と感じる。病んで働けなくなった人が「情けない」と自分を責める。外の声が内の声になった瞬間、超自我化は完成する。
そしてこの完成した超自我的命令は、非常に安定した構造を持つ。外の権力者を批判すれば抵抗できるが、自分の内部にある批判者に抵抗することは、心理的にはるかに困難だ。
「お上」という日本的超自我
日本の文化的文脈には、この超自我化をさらに深める歴史的土台がある。
「お上(かみ)」という概念だ。
江戸時代から続く「お上に任せる」「お上に逆らわない」という文化的な態度は、権威への服従を美徳として内面化してきた。これは単純な恐怖からくる服従ではない。「上の人はわかっている」「お上に任せれば間違いない」という、ある種の信頼と甘えの構造だ。
精神分析的に言えば、これは理想化された親への態度に近い。強く賢い親が正しく導いてくれるという信頼は、子どもにとって安心の源だ。国家をその理想化された親として捉える心理構造は、権威への批判を「不敬」「身の程知らず」として抑圧する超自我的命令として機能する。
現代においても、この構造は生きている。「専門家が言うのだから正しいはずだ」「政府が決めたのだから従うべきだ」という態度は、思考停止ではなく、この理想化された親への態度の現れだ。批判することへの心理的な重さ、「反権力的な人間」というレッテルへの恐れ、これらは今なお多くの人の行動を形づくっている。
「迷惑をかけるな」という禁令
日本の超自我的文化規範の中でも、特に強力なのが「迷惑をかけてはいけない」という禁令だ。
これは子どもの頃から繰り返し刷り込まれる。電車の中で騒いではいけない、他人の邪魔をしてはいけない、周囲に負担をかけてはいけない。この規範自体は社会生活の潤滑油として機能する側面がある。しかし問題は、この規範が「助けを求めること」にまで適用されるときだ。
精神的に追い詰められた人が、精神科への受診をためらう理由の一つは「家族に心配をかけたくない」「職場に迷惑をかけたくない」だ。生活に困窮した人が生活保護の申請をためらう理由の一つは「お世話になりたくない」「みんなも苦しいのに自分だけ」だ。
「迷惑をかけるな」という規範が、助けを求める行為そのものを封じる。これは個人の美徳ではなく、社会的な病だ。人が困ったときに助けを求められない社会は、セーフティネットを制度として整備しても、その機能を半減させる。心理的な障壁が、制度的な支援へのアクセスを阻む。
国家の側から見れば、これは好都合な構造だ。福祉の削減に対する抵抗が弱まり、支援を必要とする人が自発的に申請を控えてくれる。「迷惑をかけるな」という超自我的命令は、社会保障費を抑制する機能を果たしている。
「普通」という圧力
超自我的規範のもう一つの強力な形が、「普通」という概念だ。
「普通に生活する」「普通に働く」「普通の家庭を持つ」――この「普通」という言葉が、強力な規範的圧力として機能する。普通から外れることへの恐怖は、日本社会において特に強い。不登校の子どもを持つ親が苦しむのは、子どもの苦しみへの共感だけでなく、「普通ではない子どもを持つ親」という社会的な位置への恐れが混在していることが多い。精神科に通うことをひた隠しにする人の多くは、「普通ではない人間」として見られることへの恐れを抱えている。
「普通」は、固定した実体のない概念だ。何が「普通」かは時代と文化によって変わり、そもそも統計的な意味での「普通」の生き方をしている人など、よく調べれば少数だ。にもかかわらず「普通」という幻想が、強力なベンチマークとして機能し、多くの人を自己評価の低下へと追い込む。
精神科の文脈では、この「普通でなければならない」という超自我的命令が、症状の悪化に寄与することがある。「普通に働けない自分はおかしい」という自己批判が、うつの核心部分に座っているケースは少なくない。
超自我からの解放は可能か
フロイトの精神分析において、超自我の問題に取り組むことは治療の中心的な課題だった。超自我を解体することが目標なのではない。過剰で硬直した超自我を、より柔軟で現実的なものに変容させることが目標だ。「それは本当に自分の声か、それとも誰かに言われた声か」を問い直すプロセスが、治療の核心だ。
社会レベルでも、同じことが問われるべきだろう。
「自己責任だ」という声が聞こえたとき、「これは本当に自分の声か、それとも社会から植え付けられた声か」と問い直すこと。「迷惑をかけるな」という命令が内から聞こえたとき、「この命令は誰の利益になっているのか」と考えること。「普通でなければならない」という圧力を感じたとき、「その普通とは誰が決めたものか」と疑うこと。
これは単純な「反抗」ではない。内面化された命令の出所と機能を問い直す、批判的な自己検討だ。このプロセスは、個人の精神的健康にとって重要であると同時に、社会の健康にとっても必要なことだと私は考える。
超自我化した国家の命令に気づくこと。その命令が誰の利益のために機能しているかを見ること。そして「それは私の声ではない」と静かに言えること。
それが、この社会で自分を守る、最初の一歩だ。
診察室という「問い直しの場」
精神科の診察室は、小さな意味で、この問い直しの場でありうると私は思っている。
患者が「私が悪かった」と言うとき、私はその言葉をそのまま受け取らない。「本当にそうか」「他に見方はないか」と、ともに問い直す。それは患者を慰めるためではなく、内面化された命令と、本当の自分の声を区別する作業だ。
その作業の中で、患者が少しずつ自分を取り戻していく様子を、私は何度も目撃してきた。自責感が和らぎ、怒りが外に向き始め、「これは私のせいではなかった」という認識が生まれる。その変化は、薬物療法と並んで、回復の重要な要素だと私は信じている。
しかし同時に、私はその限界も知っている。診察室の中で超自我を問い直しても、外に出れば同じ社会構造が待っている。職場に戻れば同じ上司がいる。生活は変わらず苦しい。
だから、個人の心理の変容だけでなく、その変容を生み出した社会構造そのものを問い直すことが必要だ。臨床は、社会への問いから切り離せない。
本書がそれを試みる理由が、ここにある。
