終章 それでも臨床を続ける理由

終章 それでも臨床を続ける理由

――優しさが政治になるとき、席を立たないという選択


 精神科医を続けていると、「なぜこの仕事をしているのか」と問い直す夜がある。

 解決できない問題が、増えることはあっても減ることはない。制度は改善されるより先に劣化する。患者は回復するよりも長く苦しむ。社会は良くなるより先に複雑になる。自分一人の力がいかに小さいかを、日々確認しながら働く。

 それでも診察室の椅子に座り続けている。

 なぜか。

 この問いへの答えを、私はずっと探してきた。本書はその探索の記録でもある。終章では、その答えを、できるだけ正直に書いてみたい。


解決できない問題の前で

 臨床の仕事には、解決できない問題との同居が不可避だ。

 内科医であれば、抗生物質で肺炎が治る。外科医であれば、手術で腫瘍が取れる。問題と解決の間に、明確な対応関係がある。しかし精神科医の仕事には、そういう手術がない。薬は症状を和らげることができても、人生を変えることはできない。言葉は人に届くことができても、社会構造を変えることはできない。

 本書で論じてきたように、精神科の診察室に流れ込んでくる苦しみの多くは、個人の病理だけでなく、社会の構造から来ている。新自由主義的な経済、超自我化する国家、制度の隙間、回復規範の圧力――これらが生み出す苦しみは、どんなに優れた臨床家でも、診察室の中では解決できない。

 この「解決できない」という事実は、臨床家に二つの選択肢を突きつける。

 一つは、解決できないことを「できることに集中する」ことで脇に置く選択だ。自分にできること、薬の調整、心理教育、短期的な支持――これらに専念し、解決できない問題には目を向けない。これは消耗を防ぐための、合理的な生存戦略だ。多くの臨床家が、この選択を取る。

 もう一つは、解決できないことを知りながら、それでも解決できない問題の前に座り続ける選択だ。処理できないものを処理しようとするのではなく、処理できないものと共にいることを選ぶ。これは非効率で、消耗する。しかしこの選択の中に、何か本質的なものがある気がする。


「席を立たない」という倫理

 哲学者エマニュエル・レヴィナスは、他者の顔について語った。

 他者の顔は、私に命令する。「殺すな」「私を見捨てるな」「私をここに置いていくな」。この命令は、言葉としてではなく、他者の存在そのものとして発せられる。そして私はその命令に応答する責任を持つ。この応答責任(responsibility)こそが、倫理の出発点だという思想だ。

 診察室で患者と向き合うとき、私はその顔の前にいる。その人の苦しみが、私に何かを要求する。「ここにいてくれ」「私の話を聴いてくれ」「私を一人にしないでくれ」。この要求に応えることが、臨床家の倫理の核心だと私は思う。

 解決することではなく、応答すること。治すことではなく、そこにいること。「席を立たない」という選択が、倫理の表現だ。

 しかしレヴィナスの倫理は、一対一の関係に留まらない。目の前の他者への応答責任は、その他者を苦しめている社会的条件への問いへと広がる。この人をここまで追い詰めた構造への問いへと広がる。個人への倫理的応答が、社会への問いを要求する。

 席を立たないこととは、だから、診察室に閉じこもることではない。診察室の外を問い続けながら、診察室の中に留まることだ。


優しさが政治になる理由

 本書の目次を最初に提示したとき、終章に「優しさが政治になる」という言葉を置いた。これを今、展開したい。

 優しさは、通常、私的な感情として理解される。家族を大切にすること、友人を気にかけること、見知らぬ人に親切にすること。これらは個人的な美徳であり、公的な政治とは別の領域のものとして扱われる。

 しかし、優しさは本当に政治と切り離されているのか。

 制度の論理は、効率と管理と数値化を求める。その論理の下では、「コストに見合わない存在」「生産性の低い存在」「管理が困難な存在」は、周縁化される。回復しない患者、自立できない人、制度のカテゴリーに収まらない生き方は、制度の外に押し出される。

 この論理に抗して、「それでもこの人の傍にいる」と言うとき、優しさは政治的な行為になる。制度が見捨てようとするものを見捨てない、という行為だ。コストに見合わない関係を続ける、という行為だ。数値化できない価値を守る、という行為だ。

 これは政党の政治ではなく、街頭の政治でもない。しかし政治の本質が「誰が価値を持つか」「誰が守られるか」の決定だとするなら、「この人の価値を、制度の判断に委ねない」という行為は、深く政治的だ。

 ケアの倫理を論じたキャロル・ギリガンは、ケアとは単なる感情的な行為ではなく、「具体的な他者への具体的な応答」という倫理的な実践だと言った。その実践は、権利の言語や正義の言語では捉えきれない何かを含んでいる。それは、存在することへの敬意だ。

 精神科の診察室で、回復しない患者と毎週会い続けること。福祉の現場で、制度の枠に収まらない人を抱えながら支援を続けること。これらの「優しさ」は、システムに対する静かな異議申し立てだ。


「希望」ではなく「責任」として

 本書のあとがきの見出しに「希望ではなく、責任としての支援」という言葉を置いた。この対比を、もう少し丁寧に説明したい。

 希望は、美しい。しかし希望は、裏切られる。第8章で論じたように、希望が規範化されると、希望を持てない人を傷つける。「必ず良くなります」という言葉は、良くならなかったときの責任を誰が取るのかという問いを含んでいる。臨床の場での安易な希望は、しばしば患者への約束ではなく、支援者自身の不安を和らげる言葉だ。

 責任は、地味だ。しかし責任は、裏切らない。結果がどうなっても、「そこにいた」という事実は変わらない。「できる限りのことをした」という事実は変わらない。結果への約束ではなく、過程への誓いとしての責任は、希望よりも堅固だ。

 「必ず回復できます」と言うことは、希望の言葉だ。「何があっても、あなたの傍にいます」と言うことは、責任の言葉だ。私は後者の言葉の方が、臨床の誠実さに近いと思っている。

 社会に対しても同じことが言える。「日本は必ず良くなる」という言葉は希望だが、根拠が薄ければ空虚だ。しかし「この社会に生きる人々の尊厳を守るために、できることを続ける」という言葉は責任であり、根拠は言葉ではなく行為にある。


臨床という行為の文明史的な位置

 少し大きな視野で考えてみたい。

 人類の歴史において、精神の病を持つ人々は、常に存在した。古代から、苦しむ心に寄り添おうとする人々もまた、常に存在した。それは呪術師であり、聖職者であり、やがて医師や心理士になった。その歴史は、人間が人間の苦しみに応答しようとし続けてきた歴史だ。

 応答の形は変わってきた。排除から収容へ、収容から治療へ、治療から支援へ、支援から当事者中心へ。その変化の中には、進歩もあり、後退もあり、繰り返しもある。しかし「苦しむ人の傍に誰かがいようとすること」という核心は、形を変えながら続いている。

 現代日本の精神科医療と福祉が直面している困難は、本書で詳しく論じてきた。しかしその困難の中で働く臨床家たちは、この長い歴史の現在形だ。新自由主義的な社会圧力の中で、制度の管理の論理に抗いながら、それでも人に関わり続けようとしている人々は、文明史的な文脈において、人間の尊厳を守ろうとする営みの担い手だ。

 これは大げさな言い方ではなく、文字通りの意味だ。人が人の苦しみに応答することをやめた社会は、何かの意味で人間的でなくなる。その応答を続けることが、文明の条件の一つだと私は考える。


制度を超えた連帯へ

 個人の臨床家が一人でできることは、小さい。しかし連帯すれば、異なる何かが生まれる可能性がある。

 本書が描いてきたように、専門職は分断されやすい。縦割りの制度、専門性による囲い込み、組織への帰属、中立性の規範――これらが、同じ問題を抱えながら働く専門職を、つながりにくくする。

 しかし実際に、その壁を超えて連帯しようとする動きがある。当事者と支援者が共に考える場、制度を超えた多職種の協働、学術的な知見と実践の知を橋渡しする試み。これらは制度の外に、あるいは制度の隙間に、小さく育っている。

 この連帯は、政治運動である必要はない。制度を変えようという明確な目標を持つ必要もない。「同じ問題を見ている人々が、それを語り合うこと」それ自体が、連帯の始まりだ。語り合うことで、孤立した個人の経験が「共通の問題」として見えてくる。共通の問題として見えてくれば、語れる言葉が生まれる。語れる言葉が生まれれば、小さな行動が可能になる。

 第3章で論じた「怒りが政治にならない」という問題は、個人の心理の問題だけでなく、連帯の不在という構造の問題でもあった。連帯がなければ、孤立した怒りは内向きになる。連帯があれば、怒りは「これは私たちの問題だ」という言語を持てる。


「解決しない問題」と生きることについて

 本書の最後に、一つ正直なことを書きたい。

 私は本書を通じて、現代日本の下部構造の問題と、精神療法文化の問題を論じてきた。しかしこれらの問題が「解決する」という見通しを、私は持っていない。

 新自由主義は後退するかもしれないが、別の形の資本の論理が続く。少子化は多少改善するかもしれないが、根本的な社会構造の変化には長い時間がかかる。回復規範は問い直されるかもしれないが、新たな規範がその場を占めるだろう。制度は改良されるかもしれないが、制度の本質的な管理の論理は残り続ける。

 それでも、本書を書いた。

 なぜか。

 問題が解決されることへの期待からではなく、問題が正確に見えることへの価値を信じているからだ。正確に見えること、正確に語られること、それ自体が何かを変える。名前のない苦しみは、孤立した個人の中に閉じ込められる。しかし名前を持った問題は、共有できる。共有できれば、一人ではなくなる。

 診察室で患者に「これはあなたのせいではなく、構造の問題だ」と言うとき、その言葉が何かを変える。問題が解決されるわけではない。しかし苦しみの質が変わる。孤立した自責から、共有可能な問題への変換が起きる。

 本書が、その変換の小さな一助になれば、それで十分だと思っている。


それでも、臨床を続ける

 最初の問いに戻ろう。なぜ臨床を続けるのか。

 その答えは、実は単純だ。目の前に人がいるから、だ。

 解決できない問題を抱えながら、それでも生きようとしている人が、診察室に来る。その人の前に座るとき、私は理論の中にいるのではなく、一人の人間として別の一人の人間の前にいる。その瞬間に、本書で論じてきたすべての議論は、背景に引いていく。

 残るのは、ただ、この人と、この時間だ。

 その時間に、私にできることをする。できないことは、できないと認める。しかし席を立たない。そこにいることを、やめない。

 これは英雄的な選択ではない。解決できない問題の前で、それでも関わり続けることは、しばしば地味で、消耗して、報われない。しかしその地味さの中に、臨床という行為の本質があると私は思っている。

 壮大な変革への期待ではなく、目の前の人への応答責任として、臨床を続ける。

 それで、十分だと思っている。それしか、できないとも思っている。そしてその「それしかできないこと」の中に、人間としての誠実さの、最小限のかたちがあると、信じている。


読者へ

 本書を読んでくださった方の中には、支援者もいれば、当事者もいれば、どちらでもなく、ただ社会と心の問題に関心を持つ方もいるだろう。

 それぞれの立場から、本書が語ったことに、異論もあるだろう。単純化しすぎた部分も、論理の飛躍もある。私の見方が偏っている部分も、あるだろう。

 しかし一つだけ、最後にお伝えしたいことがある。

 本書が繰り返し言おうとしたことは、「あなたの苦しみは、あなたのせいだけではない」ということだ。個人の病でも、意志の弱さでも、努力不足でも、才能の欠如でもなく、あなたが生きている社会の構造が、その苦しみに大きく関わっている。

 それを知ることが、何かを変えるかもしれない。あるいは変えないかもしれない。しかし少なくとも、自分を責め続ける重さを、少し降ろせるかもしれない。

 その重さを、一人で抱えてきた人へ。本書を、届けたかった。


あとがき 希望ではなく、責任としての支援


 本書を書き終えて、私は少し疲れている。

 疲れているのは、書くことが辛かったからではない。書く過程で、自分自身の臨床を問い直すことになったからだ。毎日の診察の中で、自分がどのような構造の中に置かれ、どのような圧力に晒され、どのような沈黙を選んできたかが、書くことを通じてより鮮明に見えた。

 見えてしまうと、楽ではない。

 しかし見えないよりは、いい。そう思って、書き続けた。

 本書に登場した「患者」たちは、実在する特定の人物ではない。長年の診療の中で出会った多くの方々の経験が、プライバシーへの配慮から変形され、統合されて生まれた像だ。しかしその苦しみは、本物だ。その苦しみを届けることが、私にできる、最小限の誠実さだと思っている。

 回復モデルを批判的に論じながら、私自身は回復を信じている。ただ、その「回復」が、制度の指標に現れるものだけではないと思っている。誰かの傍で、席を立たずにいた時間の蓄積が、見えない形で何かを変えていく。その変化を「回復」と呼んでもいいし、別の名前で呼んでもいい。

 希望については、正直に言えば、私は楽観主義者ではない。社会が良くなるという確信は、今は持てない。しかし責任は持てる。目の前の人への責任、この社会で生きることへの責任、正直に語り続けることへの責任。

 希望がなくても、責任は持てる。責任があれば、続けられる。

 それが、私が臨床を続ける理由の、最も正直な表現だ。

 二〇二六年 春 診察室にて

タイトルとURLをコピーしました