アクセプタンス:受容
1.
アクセプタンスは受け入れること。なんとなく、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉を思い出します。運命を受け入れるとか、そんな感じ。受け入れがたいことだけれど、受け入れるしかない、みたいな重い雰囲気。これは言葉が適切ではない感じがする。ここは「正確な認識」でよいような気がする。なんか仏教的ですね。八正道みたいです。
2.
正確に認識することの結果として、現実を受け入れることもあるでしょう。でも、正確に認識して、そこから、自分の考えを変えることもある。現実を変えるように自分が動くこともある。どちらもダメで、そのままにしておくしかないこともある。どうするにしても、正確に認識したほうがよさそうだとは思えるでしょう。
自分のことは分からないものです。髪の毛の寝癖が分からなかったりするでしょう。だから誰かに聞いてもらえばいいでしょう。話しながら、だんだん正確に認識できてくる。
正確な認識というのにもいろいろあって、例えば、運動会系筋肉人間的正確な認識もある。キリスト教会系正確な認識もある。精神医学系正確な認識もある。どれも一つの方向からの正確な見方である。
3.
人間は、見たら苦しいことは見たくない。それは自然な心の動きだ。しかし、見ないでいることで、損をしていることも多い。見てみたら、大したことはなかったということも多い。だから、一度はきちんとのぞき込んでみる、必要なら顕微鏡も望遠鏡も使う、他人からどう見えているか、信頼できる人に聞いてみる、そういう努力も無駄ではないと思う。
幽霊だと思ったら枯れすすきだつたということは多いわけです。
天井の木目は人の顔に見えるでしょう。でもそれはただの木目なんです。
4.
とはいうものの、人間はもともといつでも正確な認識をしているわけではないし、今回は一つ本腰を入れて正確な認識をしてみようと思っても、そんなにうまくいくものでもない。もともとが認識には欠如もあり、癖もある。それでも、心を静かにして、自分を見つめ、社会を見つめ、人間を見つめ、宇宙を見つめる、見つめようとする。自分の心臓の鼓動とか、呼吸のリズム、手の温かさ、足の冷たさ、そのあたりも正確な認識の一部として重要だ。認識する自分が動揺していたのでは、正確な認識はできそうにないではないか。動揺を抑え込めと言っているのではない、自分は今、このくらい動揺しているな、と正確に認識すればよい。ある程度余裕がないと自分のことも周囲のことも、見えないものだけれど。でも、見る努力は必要だし価値がある。
5.
正確な認識(critical recognition)くらいのとらえ方がいいと思う。
歪んだ目で見れば世界も歪んで見える。そのあたりの難しさもある。
なにもアクセプタンスという言葉が間違いだとか言っているのではない。それにはそれなりの理由があるのであって、正しいのだ。
ただ自分としては、少し言い換えれば、自分の考えによくなじむというだけのことだ。本道はアクセプタンスである。
