
フランスからアメリカへ、そして世界へ。 ある思想の旅が、半世紀かけて「一つの文明の自己否定」を完成させました。
1960〜70年代のパリ。 フーコー、デリダ、ドゥルーズという3人の哲学者が書いたテキストは、フランス国内では難解すぎてほぼ読まれませんでした。 権力とは何か、言葉とは何か、同一性とは何か。 それは純粋に知的なゲームでした。
転機は1970年代末、イェール、バークレー、コロンビアの人文学部です。 アメリカの学者たちがこれらのテキストを「拾い」、別のものと合体させました。 アメリカ独自の人種的罪悪感と、宗教的正義感と。 フランスの知的遊戯は、アメリカの土壌で「武器」に変わりました。
系譜は明確です。 フーコーを読んだジュディス・バトラーは1990年、「ジェンダーは反復的な行為によって生成される社会的構築物だ」と論じ、パフォーマティブ・ジェンダー論を打ち立てました。 フーコーの権力論を継承した法学者キンバリー・クレンショーは1989年、インターセクショナリティという概念を発明しました。 「知識は権力の仮面に過ぎない」という前提から出発すれば、すべての既存制度は抑圧の装置に見える。 そこに「悪意」がある必要はありません。 論理の構造がそこへ向かうのです。
フランスの思想史家フランソワ・キュセが重要な指摘をしています。 フーコーらの思想はフランスでは「あくまで権力の分析ツール」でした。 それがアメリカに渡った瞬間、「アイデンティティ・ポリティクスの理論的基盤」に作り替えられました。 輸出された原典と、輸入先で生まれた思想は、別物だったのです。
問題はその先です。 1990年代以降、この思想体系は大学から企業のHR部門へ、メディアへ、法制度へと浸透しました。 「すべての階層は支配の産物」「すべての多数派は有罪」「規範そのものが暴力」という三段論法が、DEIプログラムとして制度化されました。
2025年、その反動が来ています。 トランプ政権はハーバード大学への22億ドル相当の連邦助成金を凍結しました。 アメリカの大学で50校以上がDEI関連の連邦調査対象となっています。 世論調査では「DEIは不公平な差別を生む」と考える国民が47%に達しています。
批判すべきはここです。 フーコーがあれほど鋭く解剖した「権力が制度化されるメカニズム」を、その継承者たちが自ら繰り返してしまった。 「解体する思想」が、解体を管理する官僚制を生み出した。 これは皮肉ではなく、構造の必然です。
一つの文明は、懐疑だけでは維持できません。 何を構築するかを語らない批評は、やがて批評される側に転落します。 シリコンバレーのAIラボで、医療現場で、工場の現場で、実際にものを作っている人々が問われているのは、まさにその問いです。
真理は存在するのか。 美しいものと醜いものを区別できるのか。 伝えるべき遺産があるのか。
