忠孝
と言われる。
忠は君主に対する誠である。
考は親に対する誠である。
ここで重要な差異がある。
君主は、選ぶことができる。
親は、選ぶことができない。
自分で選んだものでもないものに、誠を尽くすのは、やりきれないだろう。
親が、偶然、尊敬に値する自分つであれば、問題はない。しかし、そうでない場合には、困難な状況になる。
しかしまた、これまで育ててもらった恩義はある。
ひどい親でも、わずかな恩義ならば、感じないこともない。
君主についても、臣下として、君主を自由に選べるなら、とてもよい状況であるが、選べないことも多い。
よい君主に出会わない場合もある。
良くない君主、尊敬に値しない君主、誠をささげる価値のない君主と判断しつつも、
他の立派な君主は自分を雇ってくれない、仕方なく現状維持を続けるしかない、そのような場合も、あるだろうと思う。
その場合は、尊敬に値しない親に、どのようにして考を尽くすかと、似た問題になる。
誰も、理想的な君主や理想的な親に恵まれるわけではない。
どうしたらよいか。
現実を生きるとは、そういうことだ。
理想的ではない君主や親に対して、礼を尽くす。形式的な誠を捧げる。
そうした態度は正しいものだし、行為する者の魂に慰撫を与え、自信と勇気を与える。
理想君主に出会った時のための練習ともいえるし、臣下としての、態度価値の実現ともいえる。
現在の自分の君主はダメな奴だ、では、臣下の自分はどうすればよいか、
そう考えて、何か良い考えはあるだろうか。
去ることは良い解決である。
しかし、去ることが難しい場合も多い。
君主を諫め、教育する、それもよいことであるが、数々の君臣がそれを試みて、失敗してきたのではないだろうか。理不尽な世界である。しかしそれを生きてゆかなければならない。凡庸な君主が君主であり続けていることにはまたそれなりの理由があり、力学があって、その結果である。その力学は、個人の思考を大きく超えている場合もある。要するに、どうしようもない、仕方がない、そのようなカテゴリーの問題である。世の中は、最初から注意深く設計されたものではなくて、色々な偶然も重なって、途中から、各人に前提条件が渡されているようなものである。多くの人は理不尽と感じる。そのようなものだ。その前提要件をあれこれ議論することはできるとしても、実際の力にはならない。前提要件は受け容れる必要がある。そしてもそこをスタート地点として、個人の努力と工夫が始まる。スタート地点が気に入らないというのは、誠にもっともな感想である。しかしそれを言っていたら、現実は変わらない。数学の問題と同じで、前提条件が気に入らないからと考えることを拒否していたら発展はない。気に入らないとしても、それを前提条件として、その範囲内で、考えることが求められている。
面従腹背も一つの方法である。組織を破壊しないで、その劣悪な君主が去るまでの間、維持する。そのような態度もある。
いずれも、理想的ではではない。次善の策である。
しかし現実にはそのような対策しかない場合が多い。
不本意な前提条件から出発して、どこまで歩けたか、それが実際の人生である。
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変えられるものならば変えればよい。
しかし、中には、変えられないものもある。
受け入れるしかない。とどまるしかない。引き受けるしかない。続けるしかない。
しかしその場合も、受動的・消極的に甘受するのではなく、
幾分かでも、能動的・積極的に受容することができないものか。
受け入れることに意味を見いだすことができないものか。
意味を見いだすことは、共同体的な感覚ではないかと思う。
孤独のままでは、意味は発生させることはできないのではないか。
孤独の中で、意味を見いだすことはできないように思う。
連帯や絆の意識の中で、意味が現れるように思う。
