サディズムとマゾヒズム

サディズムとマゾヒズム

一般に、一瞥したところでは、
サディストは能動的で、
マゾヒストは受動的である。

しかし、内部構造を子細に見てみると、
マゾヒストがマゾヒストでない限り、話は始まらないはずであって、
マゾヒストは、隠蔽された形で、場面をリードして、全体の構成を企画しているとも解釈できる。

結局のところ、身体的な快感と精神的快感の両方を享受するのは
マゾヒストであって、一番輝いている。
サディストは、どちらかと言えば、精神的な快感の側にとどまる。
裏方でしかない。

だから真の受益者はマゾヒストであり、マゾヒストが主人公である。

サディストは助演男優賞にしかならないだろう。

主演女優賞は、マゾヒストである。

感情や行動、感覚のバリエーションも、マゾヒストのほうが多彩である。
サディストはやや画一的である。

それは、サディストは支配欲求とか攻撃性とか、画一的な欲求を背負ったものとして登場するからだろう。

それに対して、マゾヒストは画一的ではない。それぞれの特性に応じて、多様である。そして様々に興を添えるものとなる。だからそこ、個性的で、主演となる。

しかしまた、マゾヒストを多様な存在とさせているのも、サディストの腕であるともいえる。強制する技術があるからではなく、マゾヒストに内在する要素を引き出す力があるからである。強制でもあり誘導でもある力で。しかし実はマゾヒストが木要請して誘導している。

羞恥の後の慰め、冷酷な仕打ちの後の愛情確認、支配の後尊重、その振幅の中に、生命の実感が生まれる。

マゾヒズムは開花する。サディズムは開花するわけでもない。

しかしマゾヒズムが開花するのは一瞬である。繰り返せば日常風景に頽落する。

サディズムは開花しないものの繰り返しがきく。マゾヒズムの一度限りの開花を、人を替えて、何度でも鑑賞できる。

サディズムを攻撃性で説明できるわけではない。いじめの性質で説明できるわけではない。そのような皮相なものではない。攻撃しているように見えて、徹底的に奉仕している。それは相手が本当に望むことを探り当てている。

そして自分がサディストとしての本能に従うとき、同時にマゾヒストの本能を完全に満たしているという、啐啄同時の事態が起こる。非常に自分本位に振る舞い、しかも、相手のことを思いやり、相手の望みをかなえているという、不思議な完全調和が実現する。

強制力と見える力を行使するが、それはマゾヒストが理由をつけて納得しやすくするためのものだ。諦めたと思いやすくしてやるためのものだ。それは真の強制ではない。深いところでの同意と委任がある。委任契約に背かないように深い思いやりをもって、マゾヒストの最大の歓喜を実現するために生きているのがサディストである。その美学を知る必要がある。

最大限に自己本位にふるまって、それが同時に最大限の他者尊重となる。通常の人権以上の権利の前に、サディストは跪いている。その逆転の感覚の中で、今度はサディストが虐げられ恥辱の中で奉仕するだけの存在となる。

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