脳内世界モデルにおける時間遅延と自我障害の病態生理学的考察 時間遅延モデル-23

脳内世界モデルにおける時間遅延と自我障害の病態生理学的考察

1. 序論:自己意識の神経科学的基盤としての世界モデル

自己意識の成立という高次脳機能を解明する上で、「脳内世界モデル」という計算論的視座は極めて重要な戦略的意義を持つ。我々の脳は、外界の情報を単に受動的に受容するデバイスではない。神経系内部に現実世界を縮小・抽象化した「内部シミュレーター」を構築し、絶えず環境の変化を先読みすることで、生存確率を最大化する動的なシステムである。

この脳内世界モデルの主要機能は、**「照合(Comparison)」「訂正(Correction)」「精緻化(Refinement)」**の3点に定義される。モデルが生成する予測と、感覚器から得られる現実のフィードバックを照合し、その誤差(予測エラー)を訂正することで、モデルをより現実に即した精密なものへと磨き上げていくプロセスが、正常な認知を支える基盤となる。

精神医学において、させられ体験(受動体験)や幻聴、自生思考といった自我障害は、従来、記述現象学的なアプローチによって分類されてきた。しかし、本稿で提案する理論的枠組みは、これらを「脳内世界モデルの信号処理エラー」という客観的かつ測定可能な機能不全として再定義するものである。本考察では、世界モデルが運動制御と知覚の統合において果たす役割を起点とし、信号の「時間的整合性」が自我の境界をいかに規定しているかを論じる。

2. 脳内シミュレーションと運動実行のメカニズム

物理的な行動を実行する前に脳内でシミュレーションを行うことは、生命体にとって決定的な生存戦略上の価値を持つ。試行錯誤を外界での実行動ではなく脳内で完結させることで、エネルギー消費を抑え、致命的なリスクを回避しつつ、最適な運動選択が可能になるからである。

行動の意思決定から実行に至るプロセスは、以下の情報処理経路を辿る。

  1. 予測と評価: 特定の目標(例:打者を打ち取る投球、あるいは獲物を仕留める打撃)に対し、どのような運動指令が最適かを内部モデル上でシミュレーションする。複数のパターンを評価し、最も望ましい結果をもたらす運動を選択する。
  2. 信号の分岐(同時並行処理): 選択された運動指令が発火した瞬間、信号は物理的・機能的に二路へと分岐する。
    • 信号A(現実信号): 運動系(筋肉・骨格系)を介して外界へ出力され、感覚器からのフィードバックとして戻ってくる経路。
    • 信号B(予測信号): 「脳内世界モデル」に対し、シミュレーション用の刺激として送られる内部的な予測経路。

この並行処理の計算論的メリットは、リアルタイムでの身体制御の保証にある。現実の感覚信号(信号A)が神経伝導速度の制約により遅延して帰還する間に、内部モデルが先行して予測結果(信号B)を算出しておくことで、脳は両者を即座に比較検討する準備を整えることができる。

3. 信号照合システムと「時間遅延モデル」の構造

脳内の「照合部位」における情報の統合は、我々が抱く「世界の確信性」を担保する核心的なプロセスである。このシステムは、以下の5段階のステップで構造化されている。

  • (1) 選択: 内部シミュレーションに基づく最適な行動の意思決定。
  • (2) 実行と分岐: 外界(運動系)への出力と、内部モデルへの刺激送信の同時実行。
  • (3) 受信: 現実世界からの感覚フィードバック(信号A)と、内部モデルからの予測返答(信号B)の取得。
  • (4) 照合: AとBの一致度を検証。モデルの正確性を評価。
  • (5) 訂正: 照合の結果、不一致(エラー)がある場合にモデルを適応的に精緻化。

本理論の独創性は、照合部位が信号の内容(一致度)だけでなく、**「信号の到着時間(Temporal Precedence)」**を極めて厳密に測定しているという点にある。到着時間の前後関係こそが、主観的な自己意識の質的変容を決定づける根源的なパラメーターであると私は主張する。

4. 自我意識の成立条件:能動感と被動感の境界

正常な自己意識は、物理的な「時間の順序」という制約の上に成り立っている。ここで、能動感(Sense of Agency:「自分がそれを行っている」という感覚)と、自己所属感(Sense of Ownership:「それが自分に起きている」という感覚)の機序を、信号A・Bの到着順序に基づき分析する。

  • 能動感(Sense of Agency)の成立: T_B < T_A (予測信号の先行) 予測信号(B)が現実信号(A)よりも先行して照合部位に到達する状態。脳は「意図(予測)した通りの事象が、後から現実として起きた」と解釈し、「思い通りになった」という能動感を生成する。
  • 被動感(Sense of Passivity)の発生: T_A < T_B (現実信号の先行) 現実の感覚(A)が予測(B)よりも先に到着してしまう逆転現象。脳は「意図(予測)していない事象が先に発生し、後から思考(モデル)が追いついた」と処理する。その結果、行動の主体が外部にあると感じる「させられ体験」へと主観が転換される。

「So What?(それが何を意味するか)」という観点から評価すれば、時間差の絶対値(|T_A – T_B|)が症状の深刻度を規定する。微小な遅延は「行為のぎこちなさ」として知覚されるが、遅延が拡大し因果関係が完全に破綻すると、自身の思考が他者のものに感じられる「思考吹入」のような重篤な自我障害へと発展する。

5. 精神病理的帰結:自己所属感の喪失と外部帰属の諸相

時間遅延モデルは、多様な精神症状を一貫したメカニズムとして体系化することを可能にする。ここで重要なのは、運動回路におけるミリ秒単位の遅れが、高次な認知ループにおける遅延へとスケールアップすることで、症状が質的に変化する点である。

  • 自己所属感(Sense of Ownership)の維持と喪失: 通常、T_B < T_A が維持されれば自己所属感が保たれる。
    • 強迫性体験: 行為の違和感はあっても、信号の順序(T_B < T_A)自体は維持されているため、「自分が考えている(が、やめられない)」という自己所属感は保たれる。
    • 幻聴・思考吹入: T_A < T_B へと逆転し、思考の発生が予測を追い越す。このとき、体験は「外部所属感(External Ownership)」へと帰属先を変え、他者の声として知覚される。
  • 同時性の異常(自生思考): T_A = T_B 予測と現実が完全に重なり、因果の前後関係が消失すると、意志とも受動ともつかない「自生思考」として現出する。
  • 高次症状への展開(存在論的変容):
    • 世界没落体験: 内部モデル(信号B)が完全に機能不全に陥り、現実信号(A)との照合が不可能になった状態。予測不能な断片化した現実のみが残り、世界が崩壊する感覚を抱く。
    • 宇宙的自己化: 内部モデル(信号B)が異常に膨張し、あらゆる現実信号(A)を自らの予測範囲内として統合してしまう状態。全能感や宇宙との一体感という妄想的確信に至る。

このように、離人感、感情吹入、被影響体験、体系的妄想といった諸症状は、すべてこの時間軸上の整合性エラーのバリエーションとして理解可能である。

6. 結論:時間遅延モデルが示す精神医学の展望

本稿で提示した「時間遅延モデル」は、従来の精神医学に「現象学的記述から信号処理モデルへ」というパラダイムシフトをもたらすものである。

我々の自我は、脳内世界モデルが生成する予測信号と外界からの感覚信号が、適切な時間的整合性(T_B < T_A)を持って統合されるという、極めて繊細な動的平衡の上に成立している。自我障害とは、この時間軸における「1ミリ秒の狂い」から始まる、情報処理プロセスの連鎖的な崩壊に他ならない。

精神症状を「信号処理の時間差」という物理的かつ測定可能な指標で捉え直すことは、将来的にウェアラブルデバイス等を用いたバイオマーカーの特定や、時間処理機能を正常化させる新たな治療的アプローチへの道を開くものである。脳内世界モデルの機能不全を時間軸で解明する試みは、人間の主体性の本質に科学的な光を当てる、精神医学の正当な進化と言えるだろう。

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