間主観性(Intersubjectivity)の哲学的意味と世俗的理解――概念の地層学
序論:概念の多義性と混乱
「間主観性」ほど、哲学的厳密性と日常的用法の間に深い溝がある概念も珍しい。この概念は、西洋哲学において極めて精緻な理論的構築物であるが、現代では「みんなの意見」「共通理解」「合意形成」など、様々な意味で使われている。
本稿では、この概念の本来の哲学的意味を詳述し、次いで誤解や世俗的用法を分析する。そして、両者の関係と、なぜ混同が生じるかを考察する。
第一章:西洋哲学における間主観性の系譜
1.1 フッサールの超越論的間主観性――概念の起源
間主観性(Intersubjectivität)という概念を哲学的に定式化したのは、エドムント・フッサール(1859-1938)である。これを理解するには、フッサールが何に答えようとしたかを知る必要がある。
独我論の問題
フッサールは、現象学の創始者である。現象学の出発点は、「現れるものから始める」ことである。私に現れる世界、私の意識に与えられる経験から始める。
しかし、この方法には危険がある。**独我論(solipsism)**である。
独我論とは、「私の意識だけが確実に存在し、他のすべて(他者、世界)は私の意識の内容に過ぎないかもしれない」という立場である。
デカルトの「我思う、故に我あり」は、この危険を孕む。私は、私が思考することは疑えない。しかし、私以外のものは疑いうる。では、他者は本当に存在するのか?それとも、私の意識が作り出した幻影なのか?
客観的世界の間主観的構成
フッサールの革新的洞察は、客観性は間主観性によって構成されるというものである。
これは一見逆説的に聞こえる。通常、私たちは「客観的」を「主観から独立したもの」と考える。しかし、フッサールによれば、客観性は複数の主観性の交錯によって構成される。
具体例で考えよう:
リンゴの客観性
私の前にリンゴがある。私はそれを赤く、丸く、固いものとして経験する。しかし、この経験は私の視点からの経験である。私はリンゴの正面を見ている。背面は見えない。
しかし、私は「リンゴには背面がある」と確信している。なぜか?
一つの答えは、「私が回り込めば背面が見える」である。つまり、可能な他の視点を想定している。
さらに、他の人がリンゴを見ている。その人は、私とは違う角度から見ている。しかし、その人も「赤く丸いリンゴ」と認識する。
この複数の視点の一致が、リンゴの客観性を構成する。リンゴは「私にとってのリンゴ」でも「あなたにとってのリンゴ」でもなく、誰にとっても同一のリンゴとして経験される。
この「誰にとっても同一」という性格が、客観性である。そして、この客観性は、複数の主観(間主観)によって構成される。
他我の構成
しかし、ここに循環がある。客観性が間主観性によって構成されるなら、他者の存在も間主観的に構成されるのか?しかし、間主観性には他者が必要ではないか?
フッサールは『デカルト的省察』第五省察で、この問題に取り組む。
対化(Paarung)の理論:
私は、他者の身体を見る。この身体は、私の身体と類似している。二つの手、二つの足、頭。
この類似が、対化を引き起こす。私の身体と他者の身体が、一対のものとして経験される。
しかし、重要なのは、私は自分の身体を内側から経験している。私の手が動く時、私はそれを運動感覚として感じる。
そして、対化によって、私は他者の身体にも同じ内側性を「類比的に移入(appräsentieren)」する。つまり、「あの身体にも、私の身体にあるような内側性(主観性)があるに違いない」と理解する。
これは、論理的推論ではない。それは、受動的な連合である。類似したものは、自動的に対として経験される。
この対化を通じて、他我(他者の主観性)が構成される。そして、この他我との相互作用を通じて、客観的世界が構成される。
フッサールの間主観性の核心
まとめると、フッサールにおける間主観性は:
- 超越論的問題:客観性はいかにして可能か?という問い
- 構成的機能:客観性を構成する働き
- 複数性の統一:複数の主観が共通の世界を構成すること
- 決して経験されない次元:私は他者の意識を直接経験できないが、その存在を前提として世界を経験する
1.2 ハイデガーの共同存在(Mitsein)――存在論的転回
マルティン・ハイデガー(1889-1976)は、フッサールの弟子だが、間主観性の問題を根本から転換した。
「間主観性」概念への批判
ハイデガーは、「間主観性」という言葉自体を批判する。なぜなら、それは主観の先在を前提とするからである。
「間主観性」という言葉は、「まず主観があり、その『間』に関係が成立する」ことを示唆する。しかし、ハイデガーによれば、これは転倒である。
共同存在の先行性
『存在と時間』でハイデガーが示すのは、人間は最初から他者と共に存在するということである。
人間の存在様態(現存在、Dasein)は、本質的に**世界-内-存在(In-der-Welt-sein)である。そして、世界は常に共同世界(Mitwelt)**である。
具体例:
道具の理解
私はハンマーを見る。ハンマーは、単なる物体ではない。それは「釘を打つためのもの」である。この「~のため」という性格が、道具の本質である。
しかし、「釘を打つ」は、さらに「家を建てるため」「誰かが住むため」という連関の中にある。つまり、道具は最初から他者との共同世界の中に位置づけられている。
ハンマーは「誰か(大工)が使うもの」であり、「誰か(住む人)のためのもの」である。
したがって、私が道具を理解する時、すでに他者を理解している。他者は、後から追加される要素ではない。他者は、世界理解の構成的要素である。
日常的共同存在の様態
ハイデガーは、日常的に私たちが「世人(das Man)」として存在することを指摘する。
「世人」とは、「みんな」である。私たちは、「みんながそうする」ように行動する。服装、言葉遣い、価値観。これらは、個人的選択である以前に、「世人」の様式である。
この「世人」において、私たちは既に他者と共に存在している。しかし、この共同存在は、本来的ではない。なぜなら、そこでは個々人が「誰でもよい存在」になっているからである。
本来的共同存在は、死への先駆的覚悟性を通じて成立する。自己の死を見据える時、私は「誰でもよい存在」から「この私」になる。そして、この本来的自己が、他者を本来的に理解できる。
ハイデガーの間主観性理解の要点
- 存在論的先行性:共同存在は、個別主観に先行する
- 世界の共同性:世界は最初から共同世界である
- 本来性と非本来性:共同存在には、非本来的様態(世人)と本来的様態がある
1.3 サルトルの他者論――対立と闘争
ジャン=ポール・サルトル(1905-1980)は、間主観性を闘争の場として描く。
対自と即自
サルトルの存在論は、二つの存在様態を区別する:
即自存在(l’être-en-soi):物の存在。それは、それであるところのものである。石は石であり、それ以上でも以下でもない。
対自存在(l’être-pour-soi):意識の存在。意識は、自己と一致しない。意識は常に、「今の自分」を超えて、「なりうる自分」に向かっている。
人間は対自存在である。人間は、自己を対象化し、問い、変えようとする。
他者の眼差し
サルトルの有名な分析は、「他者の眼差し」である。
鍵穴の例:
私は、部屋の鍵穴から中を覗いている。この時、私は全く没入している。私は「見る者」であり、自己を意識していない。
しかし、背後で足音がする。誰かが私を見ている。
この瞬間、私は見られる者になる。私は、他者の眼差しの下で、対象になる。私は「鍵穴を覗く恥ずべき者」として自己を意識する。
この経験が示すのは、他者の存在が私の存在を根本的に変えるということである。
対象化の相互性と闘争
重要なのは、この対象化は相互的だということである。
私が他者を見る時、私は他者を対象化する。しかし、他者が私を見返す時、私が対象化される。
この相互的対象化が、サルトルにとって間主観性の本質である。そして、それは本質的に闘争である。なぜなら、対象化されることは、自由の喪失だからである。
私は自由な主体でありたい。しかし、他者は私を物として見る。私は、この物化から逃れようとする。しかし、逃れる唯一の方法は、他者を対象化することである。
これが、「見る者-見られる者」の無限の交代である。
サルトルの有名な言葉:「地獄とは他人のことだ」。
サルトルの間主観性理解の要点
- 対立的構造:間主観性は本質的に闘争である
- 眼差しの権力:他者の眼差しは、私を対象化し、自由を奪う
- 相互的対象化:この対象化は、相互的で終わりがない
- 承認の不可能性:真の相互承認は不可能である
1.4 レヴィナスの他者の他性――倫理的転回
エマニュエル・レヴィナス(1906-1995)は、間主観性を倫理の問題として再定式化した。
サルトル批判:他者は敵ではない
レヴィナスは、サルトルの他者論を批判する。サルトルにおいて、他者は私の自由を脅かす存在である。しかし、レヴィナスにとって、他者は倫理的要請の源泉である。
顔(visage)の現象学
レヴィナスの中心的概念は、顔である。
顔とは、単なる物理的顔面ではない。それは、他者の絶対的他性が現れる場である。
私が他者の顔を見る時、何が起きるのか?
具体例:路上の乞食
街を歩いていると、路上に乞食がいる。その人は私に手を差し出す。
この時、私は単に「一人の人間」を見ているのではない。私は訴えかける顔を見ている。
この顔は、言葉なしに語る:「私を殺すな」「私を助けよ」「私に応答せよ」。
この訴えは、私の意志とは無関係である。私がどう思おうと、顔は訴えかける。そして、この訴えは倫理的義務を構成する。
非対称性の倫理
重要なのは、この関係は非対称的である。
サルトルにおいて、私と他者は対称的である。両者とも、見る者であり見られる者である。
しかし、レヴィナスにおいて、他者は私よりも先行する。他者の訴えが先にあり、私の応答がそれに続く。
私は、他者に責任を負う。しかし、この責任は、私が選んだものではない。それは、他者の顔が私に課すものである。
さらに、この責任は無限である。私がどれだけ応答しても、責任は尽きない。
レヴィナスの間主観性理解の要点
- 倫理的優先性:間主観性は認識以前に倫理である
- 他者の絶対的他性:他者は私に還元できない
- 非対称的責任:私は他者に無限の責任を負う
- 顔の訴え:他者の顔は言葉以前に倫理的命令を発する
1.5 ハーバーマスのコミュニケーション的理性――言語論的転回
ユルゲン・ハーバーマス(1929-)は、間主観性を言語とコミュニケーションの問題として捉え直した。
主観の哲学から間主観性の哲学へ
ハーバーマスは、西洋哲学が「主観の哲学」に囚われてきたと批判する。デカルトからフッサールまで、哲学は孤立した主観から出発しようとした。
しかし、ハーバーマスによれば、この出発点が誤りである。人間は最初からコミュニケーションする存在である。
真理の合意理論
ハーバーマスの革新的主張は、真理は合意であるというものである。
ただし、これは単純な「みんながそう言えば真理」ではない。それは、理想的発話状況における合意である。
理想的発話状況とは:
- すべての参加者が平等に発言できる
- 強制や権力関係がない
- すべての主張が批判的に検討される
- より良い論証が受け入れられる
この理想的状況において達成される合意が、真理である。
コミュニケーション的行為
ハーバーマスは、人間の行為を二つに区別する:
道具的行為:目的達成のための行為。私は相手を手段として扱う。
コミュニケーション的行為:相互理解を目指す行為。私は相手を対等な対話者として扱う。
間主観性が本来的に成立するのは、コミュニケーション的行為においてである。
妥当性要求
コミュニケーションにおいて、発話者は暗黙のうちに三つの妥当性要求を提起する:
- 真理性:語られる内容が真である
- 正当性:発話行為が社会的規範に適合している
- 誠実性:発話者が誠実である
聞き手は、これらの要求を受け入れるか、批判的に問うことができる。この相互的な要求と応答が、コミュニケーション的理性を構成する。
ハーバーマスの間主観性理解の要点
- 言語的基盤:間主観性は言語的コミュニケーションに基づく
- 合意志向:コミュニケーションは本質的に合意を目指す
- 平等性:理想的間主観性は参加者の平等を前提とする
- 批判的検討:すべての主張は批判的検討に開かれる
1.6 メルロ=ポンティの間主観性――身体的基盤
前回詳述したので、ここでは要点のみ:
メルロ=ポンティにとって、間主観性は身体的相互作用に基づく。
- 間身体性が間主観性に先行する
- 他者理解は推論ではなく、身体的共鳴である
- 世界は最初から間主観的に与えられる
1.7 哲学的間主観性の共通項と相違
これらの哲学者の間主観性理解は、大きく異なる。しかし、共通項もある:
共通項:
- 主観の複数性:複数の主観が存在する
- 相互関係:主観同士が何らかの関係にある
- 客観性の基盤:客観的世界や真理が、単一主観ではなく複数主観の関係に基づく
相違点:
- 関係の性質:構成的(フッサール)、存在論的(ハイデガー)、闘争的(サルトル)、倫理的(レヴィナス)、言語的(ハーバーマス)、身体的(メルロ=ポンティ)
- 優先性:主観が先か(フッサール)、共同存在が先か(ハイデガー)
- 対称性:対称的か(フッサール、ハーバーマス)、非対称的か(レヴィナス)
第二章:哲学的間主観性の核心構造
哲学的伝統を踏まえた上で、間主観性の本質的構造を抽出しよう。
2.1 主観性の複数性という逆説
間主観性の第一の特徴は、主観性の複数性である。
しかし、これは逆説である。主観性(subjectivity)とは、「主体であること」である。そして、主体とは、視点の中心である。
私にとって、世界は私から見られる。私が視点の中心である。しかし、他者もまた、主体である。他者にとって、世界は他者から見られる。他者が視点の中心である。
では、視点の中心は複数あるのか?
比喩:地球儀と地図
地球儀を考えよう。地球儀には、客観的な「中心」はない。すべての点が等しく表面上にある。
しかし、地図を作る時、私たちは必ずある視点を選ぶ。メルカトル図法では、ヨーロッパが中心である。正距方位図法では、選んだ地点が中心である。
各地図は、ある視点からの世界である。しかし、どの地図も、同じ地球を表している。
間主観性は、この「複数の地図が同じ地球を指す」構造に似ている。各主観は、自己の視点から世界を見る。しかし、その世界は同じ世界である。
2.2 客観性の間主観的構成
哲学的間主観性の核心的主張は、客観性は間主観性に基づくというものである。
これは、直観に反する。通常、私たちは「客観的」を「主観から独立」と考える。しかし、哲学的には、客観性は「複数の主観によって構成される」。
具体例:科学的真理
「地球は太陽の周りを回る」という命題を考えよう。
これは客観的真理である。しかし、この真理は、どう確立されたか?
一人の科学者(コペルニクス)が仮説を提示した。しかし、一人の主張では、真理にならない。他の科学者(ケプラー、ガリレオ)が観測し、計算し、同じ結論に達した。
さらに、この結論は、誰が観測しても、いつ観測しても、同じである。つまり、すべての可能な観察者にとって同じである。
この「すべての可能な観察者にとって同じ」という性格が、客観性である。そして、これは間主観的検証可能性と言い換えられる。
したがって、客観的真理は、複数の主観による一致(間主観性)に基づく。
2.3 相互承認の構造
間主観性は、単なる複数の主観の並存ではない。それは、相互承認を含む。
ヘーゲルの承認論(上記の哲学者には含めなかったが、ここで重要):
ヘーゲルは『精神現象学』で、自己意識の発達を論じる。
自己意識は、単独では成立しない。自己意識は、他者による承認を必要とする。
なぜか?
自己意識とは、「自己を知る意識」である。しかし、自己を知るためには、自己を対象化する必要がある。
しかし、自己が自己を対象化するだけでは不十分である。なぜなら、その対象化が正しいか分からないからである。
他者が私を承認する時、他者は「あなたは主体である」と認める。この承認によって、私の自己意識が確証される。
そして、これは相互的である。私が他者を承認し、他者が私を承認する。この相互承認が、間主観性の倫理的基盤である。
具体例:子どもの発達
乳児は、最初、自己と世界を区別しない。しかし、母親との相互作用を通じて、「自己」が形成される。
母親が乳児に微笑む。乳児が微笑み返す。母親が「いい子ね」と言う。
この相互作用において、乳児は「自分は母親にとって意味のある存在だ」と理解する。つまり、母親によって承認される。
この承認を通じて、乳児は自己意識を獲得する。
2.4 第三者的視点の内面化
間主観性は、第三者的視点を可能にする。
私と相手が対話している。この時、私たちは「私とあなた」の二人称的関係にいる。
しかし、私たちは同時に、この対話を外から見ることができる。「私たちは今、こういう対話をしている」と、第三者的に認識できる。
この第三者的視点が、どう可能なのか?
それは、間主観性の内面化である。私は、「他者が私をどう見るか」を想像できる。そして、「他者が私たち二人をどう見るか」を想像できる。
この想像された第三者の視点が、客観性の基盤である。
具体例:倫理的判断
私は、ある行為をしようとする。しかし、立ち止まって考える:「もし他の人がこれを見たら、どう思うだろう?」
この「他の人」は、具体的な誰かではない。それは、一般化された他者、理想化された観察者である。
この想像された他者の視点から、私は自己の行為を評価する。これが、良心の声である。
そして、この良心は、間主観性の内面化である。
第三章:世俗的・誤解された用法
さて、ここまでが哲学的な間主観性の理解である。しかし、現代の日常的・学術的用法は、しばしばこれとは異なる。
3.1 誤解1:「主観的意見の一致」としての間主観性
最も一般的な誤解は、間主観性を「複数の人の主観的意見が一致すること」と理解することである。
典型的な用法: 「このデザインの評価には間主観性がある」=「多くの人が同じように良いと思っている」
なぜこれは誤解か:
哲学的間主観性において、問題は「意見の一致」ではなく、客観性の基盤である。
フッサールが問うたのは、「どうして複数の人が同じ意見を持つのか?」ではなく、「どうして客観的世界が可能なのか?」である。
意見が一致しても、それが客観的真理とは限らない。中世において、多くの人が「地球は平ら」と信じた。これは意見の一致だが、真理ではない。
哲学的間主観性は、なぜ意見が一致すべきか、何が一致を正当化するかを問う。単なる事実としての一致ではなく、規範的一致である。
比喩で説明:
10人の人に「このリンゴは赤いか?」と尋ねる。10人が「赤い」と答える。
世俗的理解:「10人の意見が一致したから、間主観的に赤い」
哲学的理解:「10人が『赤い』と認識するのは、リンゴが客観的に赤く、かつ10人が正常な色覚と共通の言語を持つからである。この共通性が間主観性である」
3.2 誤解2:「共感」「感情移入」としての間主観性
もう一つの誤解は、間主観性を「相手の気持ちを理解すること」「共感」と同一視することである。
典型的な用法: 「間主観的なコミュニケーションが大切」=「相手の立場に立って考えることが大切」
なぜこれは部分的誤解か:
確かに、他者理解は間主観性に関連する。しかし、間主観性は共感よりも根本的である。
共感は、「私が相手の感情を理解する」という認知的・情緒的プロセスである。しかし、間主観性は、そもそも相手が主体として存在することの理解である。
フッサールにおいて、他我の「類比的移入」は、共感とは異なる。それは、「相手が私と同じように世界を経験する主体である」という存在論的理解である。
具体例で区別:
共感:友人が悲しんでいる。私は友人の表情を見て、「辛いんだな」と感じる。友人の悲しみが、私にも伝わる。
間主観性:友人が「昨日、映画を見た」と言う。私は映画を見ていないが、友人が見たことを理解する。友人と私は、同じ世界(映画館、映画)を共有していると理解する。
共感は情緒的だが、間主観性は存在論的である。
3.3 誤解3:「合意形成」としての間主観性
第三の誤解は、間主観性を「話し合って合意すること」と理解することである。
典型的な用法: 「間主観的な意思決定プロセス」=「みんなで話し合って決める」
なぜこれは部分的誤解か:
ハーバーマスにおいて、合意は確かに間主観性の中心である。しかし、それは任意の合意ではなく、理性的討議による合意である。
ハーバーマスの「理想的発話状況」は、厳しい条件を課す:
- 権力関係の不在
- すべての関連情報の開示
- 論理的一貫性
- 批判的検討
実際の「話し合い」の多くは、これを満たさない:
- 声の大きい人が支配する
- 情報が隠される
- 論理ではなく感情で決まる
- 批判が許されない
したがって、単なる合意は間主観性ではない。理性的に正当化された合意のみが、間主観性である。
具体例:
単なる合意:会議で、上司が「Aプランでいこう」と言う。誰も反対しない。「合意」が成立する。しかし、部下は実は反対だが、言えなかっただけ。
間主観的合意:各プランの長所短所を全員が検討する。質問や批判が自由に出される。最終的に、「論理的にAプランが最善だ」という結論に、全員が納得する。
3.4 誤解4:「相互理解」としての間主観性
第四の誤解は、間主観性を「お互いを理解すること」と捉えることである。
典型的な用法: 「異文化間の間主観性を高める」=「異文化の人々が互いを理解する」
なぜこれは不十分か:
相互理解は、間主観性の結果であって、間主観性そのものではない。
哲学的間主観性は、相互理解がどう可能かを問う。つまり、相互理解の条件を問題にする。
フッサールにとって、相互理解が可能なのは、私たちが同じ世界に住んでいるからである。世界の間主観的構成が、相互理解の前提である。
具体例:
日本人とフランス人が会話する。文化も言語も違う。しかし、相互理解は可能である。
なぜか?
両者とも、同じ物理的世界に住んでいる。同じ人間の身体を持つ。同じ基本的欲求(食、安全、承認)を持つ。
この共通の基盤が、間主観性である。そして、この基盤の上に、相互理解が構築される。
したがって、相互理解は間主観性の表現だが、間主観性そのものではない。
3.5 社会学・心理学における用法
社会科学において、「間主観性」は独自の意味を持つ。
シンボリック相互作用論
ジョージ・ハーバート・ミードの社会心理学において、間主観性は意味の共有を指す。
人々は、記号(言葉、ジェスチャー)を通じてコミュニケートする。この記号が意味を持つのは、送り手と受け手が同じ意味を割り当てるからである。
例えば、「赤信号」は「止まれ」を意味する。しかし、この意味は、赤色に本質的に備わっているのではない。それは、社会的に共有された約束事である。
この共有された意味の体系が、間主観性である。
エスノメソドロジー
ハロルド・ガーフィンケルのエスノメソドロジーにおいて、間主観性は日常的実践を指す。
人々は、日常生活において、「共通の理解」を前提として行動する。例えば、列に並ぶ時、「最後尾に並ぶべき」という暗黙のルールを理解している。
この暗黙の理解が、いかに維持されるかが、エスノメソドロジーの問いである。
ガーフィンケルは「ブリーチング実験」を行った。例えば、学生に「家で客のように振る舞え」と指示する。学生が帰宅し、「お邪魔します」と丁寧に挨拶する。家族は困惑する。
この困惑が示すのは、共有された間主観的理解(「家族は客のように振る舞わない」)が破られたことである。
これらの用法の特徴
社会科学における間主観性は、哲学的間主観性よりも経験的である。
哲学は、「間主観性はいかにして可能か」と問う。社会科学は、「実際に人々はどう間主観性を達成しているか」を観察する。
したがって、社会科学的用法は、哲学的概念の経験的適用と言える。誤解ではないが、焦点が異なる。
3.6 日常語としての「間主観的」
日常会話では、「間主観的」はさらに曖昧に使われる。
典型例:
- 「それは主観的な意見だから、間主観性がない」=「個人的意見で、みんなが同意するわけではない」
- 「間主観的な評価基準」=「みんなが納得する基準」
- 「間主観的なコミュニケーション」=「お互いを尊重する対話」
これらの用法は、哲学的厳密性を欠くが、ある種の直観を捉えている:個人の主観を超えた、共有された何か。
この直観自体は間違っていない。しかし、その「共有」の基盤と正当化を問わない点で、哲学的間主観性とは異なる。
第四章:具体例と比喩による理解の深化
抽象的議論を、具体例と比喩で補おう。
4.1 科学的真理と間主観性――哲学的意味
問い:「水は100℃で沸騰する」という命題は、なぜ真理か?
世俗的答え:「みんながそう測定して、結果が一致したから」
哲学的答え:この答えは正しいが、不十分である。なぜ結果が一致するのか?
- 客観的実在:水という物質が客観的に存在し、客観的な沸点を持つ。
- 共通の測定手段:温度計という、誰が使っても同じ結果を示す道具がある。
- 共通の概念枠組み:「温度」「沸騰」という概念を、科学者たちが共有している。
- 検証可能性:誰でも、同じ実験を再現できる。
これらすべてが、間主観的に構成されている。
温度計が信頼できるのは、その製造と較正が間主観的に検証されたプロセスに基づくからである。
「温度」という概念が意味を持つのは、科学共同体が間主観的にその定義に合意しているからである。
したがって、「水は100℃で沸騰する」という真理は、客観的であると同時に、間主観的に構成されている。
重要な点:これは、真理が「恣意的」とか「社会的構築物に過ぎない」ということではない。水は本当に100℃で沸騰する。しかし、その真理性を確認し、表現し、共有するプロセスが、間主観的である。
4.2 貨幣と間主観性――社会的構成
問い:なぜ紙幣に価値があるのか?
紙幣は、物理的には単なる紙である。しかし、それで物が買える。なぜか?
答え:集合的間主観性である。
みんなが「この紙に価値がある」と信じているから、価値がある。しかし、これは単なる個人的信念ではない。それは、制度的事実である。
ジョン・サールの「制度的事実」の理論:
物理的事実:この紙は10cm×6cm、特定のインクで印刷されている。
制度的事実:この紙は「1000円」である。
制度的事実は、集合的合意によって成立する。そして、この合意は、法律、中央銀行、経済システム全体によって支えられている。
重要なのは、この間主観性は自己実現的である。
みんなが「この紙に価値がある」と信じれば、実際に価値がある。誰かが「価値がない」と思っても、他のみんなが価値を認めている限り、その人も価値を認めざるを得ない。
これは、間主観性の強力さを示す。間主観的に構成された現実は、個人の主観を超えて、客観的力を持つ。
比喩:
貨幣は、オーケストラの演奏に似ている。
楽譜には、音符が書いてある。しかし、楽譜自体は音を出さない。音楽が成立するのは、すべての演奏者が同じ楽譜を共有し、同じ解釈で演奏するからである。
一人の演奏者が勝手に違う音を出せば、調和は崩れる。しかし、すべての演奏者が協調すれば、美しい音楽が生まれる。
貨幣も同じである。一人が「この紙は無価値だ」と思っても、システムは崩れない。しかし、みんながそう思えば、ハイパーインフレーションや通貨崩壊が起きる。
4.3 言語と間主観性――意味の共有
問い:「犬」という言葉は、なぜ犬を意味するのか?
答え:言語共同体の間主観的合意である。
「犬」という音と、犬という動物の間には、本質的な結びつきはない。それは恣意的である(ソシュールの記号の恣意性)。
しかし、日本語話者の間では、この結びつきが共有されている。だから、私が「犬」と言えば、相手は犬を思い浮かべる。
この共有が、間主観性である。
さらに深く:
しかし、言語の間主観性は、単なる記号の共有以上である。
ウィトゲンシュタインの「生活形式」:
言葉の意味は、その使用によって定まる。そして、使用は、生活形式に埋め込まれている。
「犬」という言葉を理解するためには、犬が何であるかを知るだけでなく、犬についてどう語られるかを知る必要がある。
「犬を散歩させる」「犬に餌をやる」「犬が吠える」。これらの表現は、犬と人間の関係、犬の行動パターン、犬の飼育という実践を前提とする。
この実践の網の目が、生活形式である。そして、この生活形式が間主観的に共有されているからこそ、言語が機能する。
具体例:
日本人とイヌイットが「雪」について語る。
日本語には「雪」という一語がある。しかし、イヌイット語には、雪の状態に応じて数十の異なる語がある。
これは、単なる語彙の違いではない。それは、生活形式の違いである。
イヌイットにとって、雪の微細な区別は、生存に関わる。したがって、その区別が言語化されている。
日本人が、イヌイット語の雪の語彙を学ぶ時、単に音と意味の対応を覚えるだけでは不十分である。イヌイットの生活形式、雪との関わり方を理解する必要がある。
つまり、言語の間主観性は、生活形式の間主観性に基づく。
4.4 時間の間主観性――共有された今
問い:「今」は、すべての人にとって同じか?
物理学的答え:相対性理論によれば、「同時性」は観察者に相対的である。
現象学的答え:しかし、日常的経験において、私たちは「共有された今」を前提とする。
具体例:
友人と電話している。友人が「今、雨が降り始めた」と言う。私は「こっちは晴れてる」と答える。
この会話において、私たちは**同じ「今」**を共有していると前提している。友人の「今」と私の「今」が、同じ時点を指している。
この共有された「今」が、いかにして可能か?
それは、間主観的に構成された時間である。
私たちは、時計という装置を共有している。時計は、物理的に時間を「刻む」わけではない(時間自体は流れない)。時計は、共通の基準を提供する。
そして、この基準に従って、私たちは「同じ今」を経験する。
さらに、言語自体が時制を持つ。「今」「昨日」「明日」。これらの時間表現が、間主観的な時間を構成する。
哲学的深化:
フッサールの「内的時間意識」の理論は、時間の間主観的構成を論じる。
客観的時間(時計の時間)は、主観的時間経験の間主観的調整によって成立する。
各個人は、独自の時間経験を持つ。しかし、これらの経験が同期されることで、客観的時間が構成される。
4.5 芸術鑑賞と間主観性――美の客観性
問い:「この絵は美しい」という判断は、主観的か、客観的か?
素朴な答え:主観的である。美は見る人の目にある。
カントの答え:しかし、美的判断は、単なる個人的好みではない。それは、普遍性を要求する。
私が「この絵は美しい」と言う時、私は「私にとって美しい」とは言わない。私は「これは美しい」と言う。つまり、誰にとっても美しいはずだと主張する。
この普遍性の要求が、美的判断を単なる主観的好みから区別する。
しかし、美的判断は、概念に基づいて論証できない。「この絵は美しい、なぜなら…」と論理的に証明できない。
では、どうやって普遍性を要求できるのか?
カントの答え:**共通感覚(sensus communis)**である。
私たちは、他者も自分と同じように感じるだろうと期待する。この期待が、美的判断の間主観性である。
現代的理解:
美的判断の間主観性は、完全な客観性ではないが、完全な主観性でもない。
それは、文化的に構成された感受性に基づく。
ある文化において、特定の形、色、比例が「美しい」とされる。これは、恣意的ではないが、普遍的でもない。
しかし、文化の内部では、この感受性が間主観的に共有される。だからこそ、美術教育が可能であり、批評が可能である。
精神医学的関連:
統合失調症の患者が、芸術作品を独自の仕方で解釈することがある。一般的な「美」の基準から外れた評価をする。
これは、間主観的に共有された感受性からの逸脱と見ることができる。
しかし、重要なのは、この逸脱が必ずしも「誤り」ではないことである。それは、別の感受性、別の間主観的空間の可能性を示唆する。
第五章:精神医学における間主観性
5.1 診断の間主観性
精神医学的診断は、間主観性の問題を提起する。
問い:「この患者は統合失調症である」という診断は、客観的か?
問題点:
精神医学には、血液検査のような客観的検査がない。診断は、症状の観察と患者の報告に基づく。
症状の評価は、観察者に依存する。ある医師が「妄想」と判断するものを、別の医師が「強い信念」と判断するかもしれない。
では、診断は主観的か?
答え:診断は、間主観的に構成される。
DSMやICDなどの診断基準は、間主観的合意の産物である。精神科医たちが、「この症状群を統合失調症と呼ぶ」と合意した。
さらに、診断の信頼性(reliability)は、評価者間一致度で測定される。複数の医師が同じ患者を診て、同じ診断に達するかを検証する。
この評価者間一致が、診断の間主観性である。
重要な含意:
診断が間主観的であることは、診断が「恣意的」とか「社会的構築物に過ぎない」ということではない。
統合失調症の患者は、実際に苦しんでいる。症状は現実である。
しかし、その症状をどう分類し、命名するかは、間主観的プロセスである。
5.2 治療関係の間主観性
精神療法において、間主観性は中心的である。
古典的モデル:治療者は客観的観察者、患者は観察される対象。
現代的モデル:治療者と患者は、間主観的関係にある。
治療者は、患者を外から見るだけでなく、患者の世界に共鳴する。患者の苦痛を、自分の身体で感じる。
同時に、患者も治療者に影響を与える。患者の不安が、治療者の不安を引き起こす。患者の怒りが、治療者の防衛を引き起こす。
この相互的影響が、転移と逆転移である。そして、この相互性を理解し、活用することが、現代精神療法の核心である。
具体例:
患者が語る。「誰も私を理解してくれない」。
治療者は、この言葉を「症状」として記録することもできる。しかし、間主観的アプローチでは、治療者はこの言葉が自分に何を喚起するかに注目する。
治療者は、孤独感を感じる。これは、患者の孤独が治療者に伝染したのかもしれない。
治療者は、この感覚を患者に伝える:「今、あなたの話を聞いていて、とても孤独な感じがしました」。
患者は応答する:「そう、まさにその感じです」。
この瞬間、間主観的理解が成立する。
5.3 妄想と間主観性の崩壊
前回の論考で論じたように、妄想は間主観性からの逸脱である。
妄想者は、独自の現実を構成する。この現実は、他者と共有されない。
具体例:
患者は「CIAが私を監視している」と確信している。
治療者が「そんな証拠はありません」と言っても、患者は聞かない。
ここで失われているのは、間主観的現実検討である。
通常、私たちは、自分の信念を他者の見解と照合する。「これは本当か?」と問い、他者に尋ねる。他者の見解が自分と一致すれば、確信が強まる。一致しなければ、自分の見解を修正する。
しかし、妄想者は、この照合プロセスを停止する。妄想は、間主観的検証を超えた、絶対的確信となる。
治療的含意:
妄想に対して、「それは間違っている」と直接対決しても効果がない。なぜなら、妄想者は間主観的基準を受け入れていないからである。
代わりに、治療者は別の間主観的空間を提供する。
「あなたの経験は、私には理解できません。しかし、あなたが苦しんでいることは理解できます」。
この「苦しみの共有」が、新たな間主観性である。そして、この間主観性を足がかりに、徐々に現実検討が回復する可能性がある。
5.4 自閉スペクトラム症と間主観性の非定型性
ASDにおける間主観性は、「欠如」ではなく、「非定型性」として理解されるべきである。
ASDの人も、間主観性を持つ。しかし、その様態が、定型発達者と異なる。
具体例:
定型発達者は、視線を通じて間主観性を確立する。目を見て、相手の意図を読む。
しかし、ASDの人にとって、視線接触は苦痛である。したがって、視線を通じた間主観性は困難である。
しかし、ASDの人は、別のチャンネル(例えば、共通の関心事、システム的理解)を通じて間主観性を確立する。
例えば、ASDの子どもが電車に興味を持つ。同じく電車に興味を持つ大人と出会う。二人は、電車について延々と語る。
この時、間主観性が成立している。それは、情緒的共鳴ではなく、関心の共有を通じた間主観性である。
臨床的含意:
ASDの人への支援において、定型的な間主観性(視線、表情、暗黙の了解)を強制するのではなく、その人固有の間主観性の様態を理解し、尊重することが重要である。
結論:間主観性の多層性と統合
哲学的間主観性の本質
西洋哲学における間主観性は:
- 存在論的問題:客観性の基盤、他者の存在
- 認識論的問題:真理の基準、知識の正当化
- 倫理的問題:相互承認、責任
- 言語的問題:意味の共有、コミュニケーション
これらは、単なる「意見の一致」や「相互理解」を超えた、根本的な問いである。
世俗的用法の意義と限界
日常的・学術的用法は、哲学的厳密性を欠くが、実践的価値がある。
「間主観的な評価基準」という表現は、哲学的には不正確かもしれない。しかし、それは重要な直観を表現している:個人の恣意を超えた、共有可能な基準。
この直観自体は、間違っていない。ただし、その基盤を問い、正当化することが、哲学的課題である。
精神科医にとっての間主観性
精神科医として、間主観性の理解は:
- 診断の性質の理解:診断は間主観的構成物である
- 治療関係の理解:治療は間主観的プロセスである
- 病理の理解:多くの精神病理は間主観性の障害である
- 倫理的配慮:患者を間主観的パートナーとして尊重する
最後に:概念の明晰化の重要性
「間主観性」という言葉は、多義的である。だからこそ、文脈に応じて、何を意味しているかを明確にする必要がある。
哲学的議論において、間主観性は厳密な理論的概念である。 日常会話において、間主観性は緩やかな直観的概念である。 臨床実践において、間主観性は治療的態度である。
これらを混同せず、しかし相互に関連づけることが、概念の豊かな理解を可能にする。
そして、この理解が、私たちの実践(臨床、研究、教育)を深化させる。なぜなら、精神医学は本質的に、人間の間主観的存在様態を扱う営みだからである。
