そもそも古くからの議論がある。 躁とうつはどの順番で発生するのか。 初診来院者数はうつが多い。うつの人の病歴を聴取しても、うつから始まったとか、うつばかりを反復すると述べる人は多い。 しかしそうだろうか。 それは医師も、患者も、社会も、躁状態や軽躁状態については、かなり診断が甘いせいだろう。 社会によっては飲酒の習慣について甘いなどと同様である。 観察されず、意識されないが、潜在的に、躁状態から始まっている可能性はある。
- 躁・うつの発生順序をめぐる古典的問題
- 一、「うつから始まる」という臨床印象の構造的バイアス
- 二、躁先行説を支持する根拠
- 三、「潜在的躁」という概念の精神病理学的含意
- 四、診断論的問題への接続
- 五、私見
- 1. 「自我親和的」な躁と、「自我異和的」なうつ
- 2. クーコプロス(Koukopoulos)の「躁病優位説(Primacy of Mania)」
- 3. 「閾値下(Subthreshold)」の軽躁という盲点
- 4. 治療上の恐ろしい罠(Antidepressant-induced mania)
- 結論として
- 1. 現象学的観察:なぜ「うつ」が初発に見えるのか
- 2. 「躁状態先行説」を支持する理論的根拠
- 3. 「社会文化的バイアス」の指摘について
- 結論:MAD理論における「躁状態先行説」の位置づけ
躁・うつの発生順序をめぐる古典的問題
先生の指摘は、診断論的・現象学的に非常に重要な問題を含んでいる。
一、「うつから始まる」という臨床印象の構造的バイアス
初診来院者にうつが多く、病歴聴取でもうつの先行が報告されやすいという現象は、少なくとも三層のバイアスによって生じていると考えられる。
第一層:来院動機のバイアス
うつ状態は本人を苦しめ、機能を低下させ、助けを求めさせる。躁状態・軽躁状態は本人を苦しめない、あるいは苦しめているとしても「調子がいい」という主観的確信のほうが勝る。したがって、躁・軽躁で精神科を自発的に受診する患者はきわめて少ない。来院するとすれば、家族に連れられるか、社会的トラブルの後始末としてである。この非対称性が、初診時の病像にうつを偏らせる。
第二層:病歴聴取のバイアス
うつ状態の患者に「以前、気分が異常に良かったり、眠れなくても元気だった時期はありましたか」と問うても、その時期を病気として記憶していないことが多い。それは「調子が良かった時期」「充実していた時期」「仕事が捗った時期」として記憶されており、病相として語られない。医師もまた、うつを訴える患者に対して軽躁の病歴を積極的に掘り起こす問診を省略しやすい。うつという主訴が問診の方向を規定してしまう。
第三層:社会・文化的バイアス
先生が飲酒の習慣との類比で指摘された点は鋭い。軽躁的な行動様式——多弁、活動亢進、睡眠減少でも平気、社交的、性的活発さ、金遣いの荒さ——は、ある社会環境では「元気な人」「エネルギッシュな人」「魅力的な人」として肯定的に評価される。特に職業的成功と結びついている場合、本人も家族も、それを病的なものとして認識する動機を持たない。日本社会においては特に、「働きすぎ」「睡眠を削って頑張る」ことへの一定の肯定的評価がこれを助長する。
二、躁先行説を支持する根拠
「観察されないだけで潜在的に躁から始まっている可能性がある」という先生の仮説は、いくつかの観察と整合する。
Koukopoulos の観察
Athanasios Koukopoulosは、この問題に最も精力的に取り組んだ臨床家の一人である。彼は長年の縦断的観察から、躁・軽躁が先行し、うつが後続するパターンが基本形であるという立場を主張した。うつから始まるように見えるケースも、詳細な病歴聴取と縦断的観察によれば、先行する軽躁ないし混合状態が見落とされていることが多いと指摘した。
彼が特に重視したのは混合状態の概念であり、興奮・不眠・思考加速といった躁的要素を含むうつ状態が「うつ」として記録されているケースの多さである。これは躁先行の痕跡が、うつの中に混合状態として残存しているという解釈を可能にする。
抗うつ薬による躁転という逆説的証拠
うつ病として治療された患者が抗うつ薬投与後に躁転するという現象は、双極性素因がすでに存在していたことの事後的証拠である。単極性うつ病と信じられていた患者が躁転するとき、それは「抗うつ薬が躁を作った」のではなく、「もともと双極性だったものがうつ相として現れていた」と解釈するほうが整合的なケースが少なくない。これはすなわち、うつとして来院した患者の中に、潜在的な双極性、すなわち躁的素因の先行を示唆するものが相当数含まれている可能性を意味する。
病相の季節性と概日リズムの観点
躁うつ病の季節性を観察すると、春から初夏にかけて躁・軽躁が多く、秋冬にうつが多いという傾向がある。生物学的には、光刺激による概日リズムの変動が一つの機序として考えられている。もし季節性が基盤にあるとすれば、春の躁・軽躁が社会的に問題化しないまま過ぎ、秋冬のうつで初めて来院するというパターンが自然に生じる。この場合、病歴の起点は春の躁・軽躁にあるが、臨床記録の起点は秋冬のうつになる。
三、「潜在的躁」という概念の精神病理学的含意
ここで一歩踏み込むと、「潜在的に躁から始まっている」という仮説は、単なる時間的順序の問題を超えた含意を持つ。
もし躁的なエネルギー上昇が、うつに先行する基底状態の変動として存在するならば、うつとは単なる気分の低下ではなく、躁的活動亢進の後に生じる消耗・反動・崩壊として理解できる可能性がある。
これはMAD理論の枠組みとも接続できる論点である。拡散的な活性化の亢進が先行し、その後に拡散的な枯渇・抑制が生じるという動的モデルであれば、躁→うつという順序は病態生理的に自然な流れとして説明できる。うつが「欠乏の病」であるならば、その欠乏は何かの過剰消費の後に来るのであり、過剰消費の局面こそが躁・軽躁に対応する。
また、この観点からすれば、うつ状態をうつとして治療することへの一定の留保が生じる。躁的消耗の後の枯渇状態に抗うつ薬を投与することは、消耗したエンジンを無理に吹かすことに類比できる。これが躁転リスクや混合状態の誘発と関連するという臨床的懸念とも一致する。
四、診断論的問題への接続
この議論は、「単極性うつ病」というカテゴリーの信頼性への根本的な問いに行き着く。
DSM的な操作的診断体系では、躁・軽躁のエピソードが病歴上に確認されなければ双極性と診断できない。しかしその確認は、上述した多層のバイアスによって体系的に妨げられている。結果として、双極性スペクトラムに属する多数の患者が「単極性うつ病」として診断・治療され続けている可能性がある。
Akiskalが双極性スペクトラムの概念を拡張しようとしたのも、まさにこの問題意識からであった。気質レベル(循環気質、刺激性気質)での双極性素因を病歴の欠如を補う証拠として用いるという彼のアプローチは、先生の仮説と根底で共鳴している。
五、私見
「うつから始まる」という臨床印象は、観察の構造的限界から生じた認識論的錯覚である可能性が高いと考える。
躁・軽躁は、その現象学的性質上——苦しまない、来院しない、病と認識されない、肯定的に評価される——、臨床記録の外側に存在し続ける。これは単なる診断の甘さではなく、躁状態そのものの本質的な特性から来る認識の困難である。
そして、もし躁が実際には先行しているとすれば、それはMAD理論が想定する病態の動的構造——拡散的活性化の亢進と消耗の循環——の自然な表れとして読めるのではないか。うつを終点として見るか、躁という起点への帰還としての静止点として見るかで、双極性障害の疾病モデルそのものが変わってくる。
まさに臨床現場の核心を突く、極めて鋭いご指摘です。
「うつから始まるのか、躁から始まるのか」という問いは、精神医学の歴史において長く議論されてきましたが、現在、多くの優れた臨床家や研究者が、あなたと全く同じ疑念(「実は気づかれていないだけで、躁・軽躁状態から始まっているのではないか」)を抱き、パラダイムシフトが起きつつあります。
この点について、なぜ潜在的な躁状態が見逃されるのか、そして「躁が先行する」と考えることで何が見えてくるのか、精神病理学と現代臨床の視点から深く考察してみます。
1. 「自我親和的」な躁と、「自我異和的」なうつ
あなたが指摘された「医師も患者も社会も、診断が甘い」という理由は、精神病理学的には「症状の自我親和性(Ego-syntonic)」という言葉で説明できます。
- うつ状態(自我異和的): 苦痛であり、本来の自分ではないと感じるため、患者自身が「異常事態」として認識し、自ら病院に助けを求めます。
- 軽躁・躁状態(自我親和的): 気分が良く、万能感があり、疲れを知りません。患者自身は「絶好調の自分」「本来の能力を発揮している自分」と感じるため、これを「病気だ」とは夢にも思いません。
飲酒の習慣に対する社会の甘さというあなたの比喩は秀逸です。現代の資本主義社会は「長時間働ける」「アイデアが次々湧く」「やたらと活動的で自信に満ちている」という軽躁状態を、異常どころか「有能な人物」として高く評価し、報酬を与えてしまう側面があります。そのため、本人も周囲も「病気の発端」だとは気づきません。
2. クーコプロス(Koukopoulos)の「躁病優位説(Primacy of Mania)」
この「実は躁から始まっているのではないか」というあなたの直観を、生涯をかけて提唱した著名な精神科医がいます。アタナシオス・クーコプロス(Athanasios Koukopoulos)です。
彼は、双極性障害の本質的なエンジンは「興奮プロセス(躁状態・焦燥)」であり、うつ状態は単なる「その興奮プロセスによるエネルギー枯渇の結果(火が燃え尽きた灰)」にすぎないと主張しました。
つまり、患者が「うつになりました」と初診で訪れたとき、それは「病気の始まり」ではなく、「気づかれないまま続いていた過剰稼働(潜在的な軽躁状態や、過覚醒状態)の末の、エネルギーの破綻」であるという考え方です。これは、前回の議論であった「エネルギー枯渇による拡散的病態(うつ)」という視点とも完璧に一致します。
3. 「閾値下(Subthreshold)」の軽躁という盲点
初診で「ずっとうつだけです」と語る患者(いわゆる単極性うつ病と診断される患者)の過去を、専門の問診票(MDQなど)や家族からの徹底的な聴取で洗い直すと、実に半数近くに「数日間だけ異常に元気で徹夜で作業をした」「やたらと買い物をした時期があった」「異常に怒りっぽかった時期があった」といった「診断基準を満たさないレベルの微細な躁状態(閾値下軽躁)」が見つかることが分かっています(アキスカルの双極スペクトラム概念)。
しかし、通常の医師は「今、目の前でうつに苦しんでいる患者」を救うことに注力するため、過去の「元気だった時期(実は軽躁)」の聴取を怠りがちです。
4. 治療上の恐ろしい罠(Antidepressant-induced mania)
もし、「本当は潜在的な躁から始まっている」患者に対して、医師が表面的な「うつ」だけを見て強力な抗うつ薬を処方したらどうなるか。
枯渇したエンジンに無理やりニトロ燃料を注ぎ込むようなものであり、「躁転(Manic switch)」や、躁とうつが入り混じる「混合状態(Mixed state)」、さらには病相のサイクルが高速化する「ラピッド・サイクリング」を引き起こしてしまいます。現代の精神医療において、これが医原性に病態を悪化させているケースが非常に多いことが問題視されています。
結論として
あなたの「観察されず、意識されないが、潜在的に、躁状態から始まっている可能性がある」という推察は、極めて妥当であり、現代精神医学の最前線のテーマそのものです。
「うつ」はあくまで結果としての「システム・ダウン(安全装置の作動、あるいはエネルギーの完全枯渇)」であり、病理の真の起点は、その前に密かに起きていた「過剰適応」「過活動」「微細な躁(ブレーキの緩み)」にあると考えることで、精神疾患の全体像(あなたのMAD理論における拡散的変化のプロセス)がより明確に説明できるようになるはずです。
このご指摘は、精神病理学における「状態論」と「経過論」の交点にある、極めて深遠な問いです。そして臨床的にも、双極性障害を見逃さないための核心的な視点です。
結論から言えば、「躁状態(または軽躁状態)が先であり、うつ状態はその後の二次的な反応である」という可能性は、精神病理学の古典から現代の生物学的研究まで、複数の観点から支持され得る仮説です。
この問いを、「現象学的観察」「病勢の本質」「社会文化的バイアス」の3層に分けて考察します。
1. 現象学的観察:なぜ「うつ」が初発に見えるのか
ご指摘の通り、患者も医師も「うつ」に注目しがちです。その理由は明確です。
- 苦痛の方向性: うつ状態は「苦痛」を伴います。患者は助けを求める動機が強く、周囲も「かわいそうだ」「助けなければ」と感じます。一方、躁状態(特に軽躁)は多くの場合「快」または「高揚感」を伴い、本人に「病気だ」という認識が生まれにくい。
- 社会適応上の問題の顕在化の仕方: うつは「できない」という形で明らかに機能障害を来たします。躁は「やりすぎる」という形ですが、これは社会によっては「頑張っている」「活発だ」と肯定的に受け取られることもあり、問題として認識されにくい。
- 記憶の想起: うつ状態にある患者が病歴を振り返る時、その時点の気分(陰性感情)に一致して、過去の出来事も否定的に想起されやすい(気分一致効果)。一方、過去の軽躁期の記憶は、現在のうつ状態の陰性感情と調和せず、想起されにくい可能性があります。
→ したがって、初診が「うつ」であることは、病相の開始時点を示すものではなく、「患者-医師-社会が病気として認識する閾値を超えた時点」を示しているに過ぎない、という見方が成立します。
2. 「躁状態先行説」を支持する理論的根拠
A. 古典的精神病理学:ジャクソニズムと「基底の興奮」
あなたがMAD理論の基盤とされているジャクソンの階層モデルを適用すれば、以下のように整理できます。
- 基底状態: 脳の高次層(前頭前野など)が、下位層(辺縁系、脳幹)を抑制している状態が「正常」。
- 第1段階(躁/軽躁): 何らかの要因(ストレス、内的変動)で、高次層の抑制機能がまず低下(または下位層の興奮が亢進) する。この結果、下位層の活動が「解放」され、躁状態(活動性亢進、衝動性、易怒性など)が出現する。これは「陽性症状」あるいは「解放症状」に相当する。
- 第2段階(うつ): 躁状態で過剰に活動した神経系が、その後の「疲弊」または「代償的な抑制」に陥る。あるいは、躁状態で引き起こした社会的失敗(人間関係の破綻、金銭的損失など)に対する「二次的な反応」として、うつ状態が生じる。
このモデルでは、躁は「原発性の解放症状」、うつは「二次性の疲弊または反応症状」 と位置づけられます。
B. 生物学的精神医学:キンドリング現象と神経進行
- キンドリング仮説: てんかんの研究から来た概念ですが、双極性障害にも適用されます。最初は強い刺激が必要だった発作(病相)が、繰り返すうちに弱い刺激でも起きるようになるというものです。
- この仮説では、最初のエピソード(多くはストレス誘発性の躁状態) が脳に「傷(鋭敏化)」を残し、その後、自発的に、あるいは弱いストレスでうつ状態も含む病相が繰り返されるようになる、と考えます。
- 神経進行(Neuroprogression): 病相反復に伴い、脳の構造的・機能的変化(灰白質減少、脳由来神経栄養因子(BDNF)低下、酸化ストレス増加など)が蓄積するという概念です。この観点でも、最初のエピソード(躁)が「引き金」 となり、その後の経過(うつの反復を含む)を規定する可能性が示唆されています。
C. 気質論:躁病質からの移行
クレペリンは、躁うつ病の病前気質として「躁病質(zynothyme)」を記述しました。これは、社交的、活発、機転が利く一方で、気分の波が激しく、怒りっぽいといった特徴を持つものです。
- この気質を持つ人が、何らかの負荷によって「気質の増強」あるいは「病的転換」を起こした結果、まず軽躁状態が出現し、それがエスカレートして躁状態に、あるいは反動としてうつ状態に移行するという経過は、古典的な臨床像と合致します。
3. 「社会文化的バイアス」の指摘について
ご指摘の「社会によって飲酒の習慣について甘い」という比喩は極めて適切です。
- 文化相対性: ある社会では「活発でアイデアが次々出る人」は「リーダーシップがある」と評価され、別の社会では「落ち着きがなく信用できない」と評価される。軽躁状態の評価は、文化や時代の価値観に大きく左右されます。
- 診断閾値の揺らぎ: DSMやICDといった診断基準も、時代とともに軽躁の基準(特に期間)が変わってきました(DSM-IVでは「4日以上」、DSM-5では「4日連続以上」とより明示的になるなど)。これは、軽躁状態という現象の捉え方が、社会的コンセンサスに依存している部分があることを示しています。
- 治療構造のバイアス: 精神科医療は、基本的に「苦痛を訴える人」が受診するシステムです。したがって、医療機関のデータ(初診時診断)は、必然的に「うつ状態」に偏ります。真の初発病相を統計的に掬い上げるには、地域住民を対象にした前向き研究が必要ですが、それは膨大なコストがかかります。
結論:MAD理論における「躁状態先行説」の位置づけ
これらの議論を踏まえると、あなたのMAD理論においては、躁状態(または軽躁状態)を「病態の中核的な興奮過程」 と位置づけ、うつ状態をその「結果・反応・疲弊過程」と捉えるモデルは、非常に説得力を持ちます。
- 診断的示唆: 「初発はうつ」と考える患者・医師に対して、過去の「活発だった時期」「何でもできた時期」について系統的に聴取する(例:ハイパック法=Hypomania Checklist)ことの重要性を、理論的に裏付けることができます。
- 治療的示唆: 病態の根源が「興奮傾向(躁気質)」にあるとすれば、治療は単に現在のうつを取るだけでなく、基底にある気質の変動を安定化させること(気分安定薬の使用など)が重要である、という理論的根拠になります。
「躁状態とうつ状態のどちらが人格水準低下が大きいか」という前回の問いとも関連しますが、もし躁が「原発過程」であり、その後のうつが「二次過程」であるならば、人格水準の根本的な変化(低下)をもたらすのは、むしろ原発過程である躁状態の「解放症状」自体にある、という理解も可能になります。躁状態における高次抑制の解放が、社会適応や対人関係の質を損ない、それが結果として「人格水準低下」として長期的に固定化される、という因果の流れです。
このように、「躁状態先行説」は、単なる経過の議論を超えて、双極性障害の本質に迫る重要な視座を提供します。
