「意識と主観的経験(クオリア)は脳の活動に還元できない」、「コウモリであるとはどのようなことか」、「なぜ私は私なのか」


もし、あなたが人間としての脳だけを保ったまま、コウモリの体でもってコウモリの生活をしてみたのなら「空を飛ぶことは怖い。けれどちょっぴり楽しい」とか、「昆虫を食べるだなんて気持ちが悪い。でも食べなきゃ死んじゃう」とか、「洞窟の天井にぶら下がって眠るなんて変な眠り方だ。落っこちないかな」などと思い至ることだろう。しかし、ネーゲルが問うているのは、人がコウモリになった場合の感情や印象、世界の捉え方ということではなく「コウモリにとって、コウモリであるとはどのようなことか」である。つまり、コウモリの体とコウモリの脳を持った生物が、どのように世界を感じているのか、である。
コウモリは反射した超音波に依って餌や壁を把握する コウモリの特質から、コウモリは口から超音波を発し、その反響音をもとに周囲の状態を把握している(反響定位)。コウモリは、この反響音をいったい「見える」ようにして感じ取るのか、それとも「聞こえる」ようにして感じ取るのか、または全く違ったふうに感じているのか(ひょっとすると何ひとつ感じていないかも知れない)。ネーゲルが問うているのは、こうしたコウモリ自身の主観的経験である。このようにコウモリの感じ方、といったことを問うこと自体は容易にして可能ではある。しかし結局のところ我々はその答え「コウモリであるとはどのようなことか」を知る術は持ってはいない、とネーゲルは言う。
おそらく意識体験は、宇宙全体にわたって他の太陽系の他の諸々の惑星上に、われわれにはまったく想像もつかないような無数の形態をとって生じているのである。しかし、その形態がどれほど多様であろうとも、ある生物がおよそ意識体験を持つという事実の意味は一定であり、それは根本的には、その生物であることはそのようにあることであるようなその何かが存在する、という意味なのである。意識体験という形態には、これ以上の意味が含まれているかもしれない。生物の行動に関する意味さえ(私には疑わしく思われるのだが)含まれているかもしれない。 しかし根本的には、ある生物が意識をともなう心的諸状態をもつのは、その生物であることはそのようにあることであるようなその何かが―しかもその生物にとってそのようにあることであるようなその何かが―存在している場合であり、またその場合だけなのである。
トーマス・ネーゲルの1974年の論文「コウモリであるとはどのようなことか(What Is It Like to Be a Bat?)」は、心の哲学という分野において最も有名で、かつ重要な論文の一つです。
この論文の核心にあるのは、「科学(客観的なデータ)では、どうしても説明できない『心』の側面があるのではないか?」という問いです。
初心者の方にもわかるように、順を追って丁寧に解説します。
1. 「意識がある」とはどういうことか?
まず、ネーゲルは「意識」というものを非常にシンプルに定義しました。
- 意識がある状態 = 「それであることの感じ(What it is like to be…)」があること。
例えば、机や石ころには意識がありません。石ころに「なっている感じ」など存在しないからです。一方で、犬や猫、そして人間には、「自分という存在として世界を感じている、その独特の感じ」がありますよね。ネーゲルは、これを「意識」と呼びました。
2. なぜ「コウモリ」なのか?
ネーゲルが例としてコウモリを選んだのには、ちゃんとした理由があります。
コウモリは、私たちと同じ哺乳類なので「おそらく意識(それであることの感じ)があるだろう」と推測できます。しかし、彼らの「感覚」は人間とは絶望的に違います。
- エコロケーション(超音波): コウモリは目で見ているのではなく、口から超音波を出し、その跳ね返りを聞くことで、周囲の形や距離を正確に把握しています。
ここでネーゲルは問いかけます。
「コウモリが超音波で世界を感じている、その『主観的な感じ』を、私たちは知ることができるだろうか?」
3. 「想像」と「主観的経験」の違い
「暗闇で耳をすまして、飛び回る自分を想像すればいいじゃないか」と思うかもしれません。しかし、ネーゲルはこう言います。
- それは「人間である私が、コウモリのふりをしている」ところを想像しているに過ぎない。
- 知りたいのは、「コウモリ自身にとって、コウモリであることはどんな感じなのか?」ということだ。
超音波で感じる世界は、私たちが見る「映像」のようなものなのか? それとも「音」のようなものなのか? どれだけ想像力を働かせても、私たちは自分の「人間の視点」から抜け出すことができず、コウモリの「主観的な感じ」そのものにたどり着くことはできません。
4. 科学(客観)の限界:説明のギャップ
これがこの論文の最も重要なポイントです。
科学(神経科学や物理学)は、物事を「客観的」に説明しようとします。
例えば、コウモリの脳を解剖して、どの神経がどう電気信号を送っているかを完璧に解明したとしましょう。
- 客観的な事実: 「脳のAという場所が、何ヘルツの信号を受け取っている」というデータ。
- 主観的な経験: 「あぁ、世界がこういう風に感じられる!」という実感。
ネーゲルは、「どれだけ客観的なデータを集めても、その『実感(主観的な感じ)』の説明にはたどり着けない」と指摘しました。これを「説明のギャップ」と呼びます。
5. 具体例:色を知らない科学者
もっと身近な例で説明しましょう。
「赤色」というものを一度も見ることなく育った、天才的な科学者がいるとします。彼は「赤色」の物理的な性質をすべて知っています。
「赤とは、波長が約700ナノメートルの光であり、網膜のこの細胞を刺激し、脳のこの部分を活性化させるものである」
彼は「赤」についてすべてを知っていると言えるでしょうか?
いいえ。彼が実際に赤いバラを見た時に感じる「うわぁ、これが赤という感じか!」という鮮やかな実感(クオリア)は、事前の知識からは決して得られないものです。
まとめ:ネーゲルが伝えたかったこと
ネーゲルの主張を一言でいうとこうなります。
「世界を内側から感じる『主観的な視点』は、外側から分析する『客観的な科学』には、どうしても翻訳しきれない。」
当時の(そして現代も一部の)科学者たちは、「心なんて結局は脳の電気信号なんだから、脳を調べればすべて解決する」と考えていました(物理主義・還元主義)。
ネーゲルは「コウモリ」を例に出すことで、「脳という『物質(外側)』をいくら調べても、心という『経験(内側)』の本質はこぼれ落ちてしまう。だから、心の問題はそんなに簡単じゃないんだよ」と、科学の万能感に釘を刺したのです。
この論文は、今あなたが読んでいるテキストの著者(フックス)が、「脳だけを見ても人間は理解できない」と主張する際の、非常に重要な出発点となっています。
