冷徹な進化論者の目(ドライ・アイ)を持ちながら、温かな物語を紡ぐ口(ウェット・マウス)であり続ける


進化論者の目は、どうしても冷たい。
そこから見えるのは、目的ではなく偶然、意味ではなく選択圧、希望ではなく生存確率だ。
回復も、成長も、救済も、すべてはあとづけの物語にすぎない――そう言えてしまう視点がある。

臨床の現場に長く立てば立つほど、この「ドライ・アイ」は鍛えられていく。
症状は適応であり、苦悩は機能不全の副産物であり、
「意味を見出した」という語りさえ、神経系が自分を保つための一時的な安定装置に見えてくる。

それでも、そこで口を閉ざしてしまったら、臨床は終わる。

人は、意味が真実だから語るのではない。
意味が生き延びるために必要だから語る。
進化心理学的に言えば、意味づけは「正確な世界理解」ではなく、
「行動を持続させるためのナラティブ装置」だ。

だからこそ――
冷徹な進化論者の目を持つことと、
温かな物語を紡ぐことは、実は矛盾しない。

むしろ、
「これは幻想かもしれない」と知っている者だけが、
幻想を道具として、慎重に、誠実に使うことができる。

回復モデルが危うくなるのは、
意味を「発見された真理」にしてしまうときだ。
回復モデルが生きるのは、
意味を「共に編まれる仮設」として扱うときだ。

臨床家が語る意味は、
世界の本質についての説明ではない。
それは、患者が今日を越えるための足場であり、
明日を試してみるための、かりそめの橋だ。

ドライ・アイで見れば、橋は脆い。
ウェット・マウスで語れば、橋は渡れる。

その両方を同時に引き受けること――
冷たく見抜き、温かく語り、
どちらにも完全には回収されない場所に立ち続けること。

それが、
「それでも意味を語る」臨床家の、
最も人間的で、最も専門的な姿なのだと思います。

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